Jamais Vu
-181-

第13章
リアル集結
(4)

 萠黄は考えるよりも早く、通話ボタンを押していた。
《もしもし、もしもし》
 聞こえてきたのはまぎれもなく影松清香の声である。チケット発売即ソールドアウトの超人気アルパ奏者。だが今はリアルとして、ひたすら逃亡の身。
「もしもし、光嶋です! 萠黄です!」
《萠黄さん、萠黄さんなのね!》
 受話口の向こうで、安堵の吐息が漏れた。
 萠黄は息せき切って尋ねた。
「ご無事なんですね?」
《ええ、何度かヒヤリとすることはあったんだけど、どうにか岐阜と滋賀の県境までやってこれたわ。それでお知らせしておこうと思って。たぶん明日の朝には大津を通ってそのまま京都に入り、萠黄さんにメールで教えてもらった場所まで行けると思うの》
 大津を通って!? 
「ダメ! そこはダメ!」
 我知らず大きな声で叫んでいた。
(大津に近づいたらアカン。そこには伊里江兄がいる)
 しかし萠黄は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。すぐそばでシュウが不審げな目をこちらに注いでいる。
 萠黄は通話口と自分の口の間に手を添えると、極力小さな声で、
「もしもし影松さん。よく聞いてください。じつは……その、詳しい理由は話せませんが、大津は大変危険な場所なんです。どうか迂回してください」
《え、そうなの? ……判ったわ、そうします》
 清香は萠黄の声のトーンから何事かを察したらしく、答えるとすぐ電話を切ろうとした。萠黄はあわてて、
「明日の朝にでも電話しますから」
《ウン、待ってる》
 萠黄は通話を切り、携帯をポケットにしまった。
「誰から?」
 シュウが問いかけてきた。
「知人です」
 萠黄はどこ吹く風という顔で返事した。心の中では大量の冷や汗を流しながら。
 シュウはわずかに唇を尖らせただけで、靴先を居室のある建物に向け、歩き始めた。
 萠黄も「平常心平常心」と唱えながら、後に付き従う。
 夜風がサーッと通り過ぎていった。
 月が煌煌と地面を照らしている。
 辺りに植わった植栽が亡霊のように揺れ動く。
 萠黄の胸がざわざわと騒いだ。
(不安になる必要なんかない。明日になれば清香さんに会えるやん)
 そう思って気分を盛り上げようとするが、心中に広がる群雲はいっこうに消え去らない。
 あれこれ考えているうちに、エントランスの明かりが見えた。しかし自動ドアに近づこうとした時、
「──おい」
 思いもよらぬ方向から鋭い声が飛んできた。
 同時に暗闇から伸びてきた手が、萠黄の喉をつかんだかと思うと、そのまま彼女を地面に引きずり倒した。
「ミス光嶋!」
 シュウが弾かれたように駆け寄ってくる。しかし、その足が手前でピタリと止まった。
「……隊長代理」
 萠黄はゲホゲホと激しくむせた。さいわい後頭部は芝生に受け止められ、脳震とうを起こさずに済んだが。
 咳き込みながら無理して目を開いた。すると月光に照らされた男の顔が自分を見おろしていた。その左頬には見覚えのある裂傷が浮き出ていた。
「光嶋萠黄。俺を甘く見るな」
 真崎は腰を屈めると、萠黄の頬を手の平でピタピタと叩いた。
「な、何するん……」
「言え。さっきの電話の相手は誰だ!」
 有無を言わさぬ声は、鋭い刃物の切っ先のように萠黄の耳を貫いた。
「相手の言ったことに『ダメ』と答えたな。その相手もリアルなんだろう? 違うか?」
 萠黄は驚いた。あの時、周囲には誰もいなかったはずだ。
「なぜ知ってる、と思うか? 種明かしをしてやろう。お前のはめてる、それだ」
 真崎は萠黄の手首を指さした。そこには父親に言われるままに巻いたモニター用の腕輪があった。
「まさか、これが!?」
 萠黄は腕輪を顔に近づけた。盗聴器付きだったのか?
「『大津は大変危険な場所なんです。どうか迂回してください』」
 真崎は暗唱してみせた。明らかに盗み聞きされていたのだ。
 かっとなった萠黄は、腕輪を乱暴に外すと、明かりの届かない遠くへと放り投げた。
(お父さんもグル? くっそー、信じてたのに!)
「答えろ。大津にある危険とは何だ?」
 真崎は萠黄の首をつかむと、荒々しく揺さぶった。
「俺から言い逃れようなんて考えるな。さっさと白状したほうが身のためだぞ」
 真崎の指がぐいぐいと頸に食い込んでくる。
 リアルパワーで逃れようにも、どうすればいいのか判らない。シュウはただただ突っ立っているだけだ。
(い、息が──)


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