Jamais Vu
-178-

第13章
リアル集結
(1)

 スズメの囀(さえず)りに、萠黄は目を開いた。
 窓にかかったカーテンが、朝の光にぼんやり照らされている。
 大きな伸びをひとつして、左手首を目元に近づけた。そこには昨日までなかった腕時計様の装置がはめられている。液晶は時刻を表していた。
 午前六時五十分。
 萠黄はベッドを抜け出し、窓辺に近づくとカーテンを横に滑らせた。
 目覚ましの代役を果たした二匹のスズメが、仲良さそうに飛び立っていった。つがいだろうか。
 天気は文字どおりの曇天。京都の空は厚い雲に覆われていた。
 木々の間からエネルギー工学研究所が見える。

 プリンを縦に引き延ばしたような建物を出たのは昨晩、日付が変わろうという頃だった。
 萠黄が震源となって起きた(と思われる)地震は、彼女の内に溜まりつつあったエネルギーを発散することで起きた──少なくとも、彼女の父親、伊椎製作所の主任研究員にしてノーベル物理学賞受賞者の光嶋裕二博士は、萠黄が口走った話からそう推察した。
 エネ研は、蜂の巣を突ついたような騒然とした空気で充満した。なにしろリアルのエネルギーを発散させれば、二週間というタイムリミットを伸ばすことができるのだ。
「ありがとう萠黄! おかげでまたひとつ光明が見えてきたよ」
 父親は言ったが、萠黄は懐疑的だった。だいいち地震を起こしたなんて自覚はこれっぽっちもない。どうすれば起こせるのか、それこそ判らない。
「そうか。でも調べればきっと手がかりがつかめるはず。すまないが、追加の精密検査を受けてほしい」
 疲れていたが、到底断れる状況ではない。萠黄はさらに数時間に及ぶ検査を受けた。
 その結果──何も出なかった。
「実際に地震が起きる瞬間のデータが必要だ。すまないが、これを付けておいてくれないか」
 父親が差し出したのは、腕時計サイズの計測器。これをはめていれば、四六時中、萠黄の身体の変化を無線でモニターできるのだという。何度も頭を下げられては、なおさら断ることはできない。萠黄はしぶしぶ承知して計測器を手首にはめた。
 検査から解放された時、午後十一時の時報を聞いた。
 ところが、萠黄は地下十階に帰してもらえなかった。父親に付き添われてエレベータまで歩いてきたところで、追ってきた野宮助教授につかまったのだ。さらに迷彩服たちもやってきた。
「光嶋萠黄クンの居室は変更になった。これからすぐ移動してほしい」
 理由を問うと、地震を起こしかねない人間をエネ研の中に置いてはおけないというのだ。父親は、建物は万全の耐震設計で建てられていると反論したが聞き入れられなかった。
 萠黄はその場でリアルキラーズに囲まれ、エレベータに乗せられると、地上へと運ばれた。むんや久保田らに事情を伝える暇もない。ここに来た時に通ったエントランスを出た時、心細さを感じたが、父親がついてきてくれたので、どうにか取り乱さずに済んだ。
 新しい居室は、南に少し歩いた、別の研究棟の一室があてがわれた。
「萠黄についていてやりたいが、職場を離れることはできん。すまんが堪えてくれ」
 萠黄は気にしないでと父親に答えた。すでに睡魔に取り込まれていた彼女は、階段を上って部屋に入ると、そのままベッドにもぐり込んだ。

 建物の陰から小さな人影が現れた。見覚えのあるガニ股歩きは野宮助教授だった。立ち止まって身体を反らせたかと思うと、弾みをつけて口から何か吐き出した。それは宙を飛び、見事、ゴミ箱の中に落下した。どうやら噛んでいたガムのようだ。萠黄はため息をついた。
「──むんら、心配してるやろな」
 せめて電話でもあればと思ったが、部屋には見当たらない。向こうは地下なので携帯電話も無理だ。
 サッシ窓を開けてみる。湿度を含んだ空気が頬を撫でた。
 野宮は擦れ違った迷彩服に何ごとか話しかけ、そのままエネ研に入っていった。
 エネルギー工学研究所。昨日までは久保田の母校であり、お世話になった筵潟教授夫妻のこともあって、好印象すら持っていた縦長プリンが、今は憎らしく思える。
(お父さんは検査の合間に教えてくれた。砂状化現象を抑える技術をここで完成させれば、エネ研に多額の出資をしている伊椎製作所は、リアル以後の世界で巨万の富を得ることができ、世界を牛耳ることができると考えているらしい。
 それでヴァーチャルの人々が救われるならそれでいいと思う。しかしお父さんは危惧している。伊椎製作所の副社長は近々社長の座に就き、その技術の恩恵を受ける者から高額の見返りを得ようとするだろう。本来はあまねくヴァーチャル人類に貢献すべく、無償でおこなうべきことなのに──)
 人工ブラックホールのプラズマ照射を受けられる者、受けられない者。この世界は大きく二分されてしまうだろう。そして新たな争いの種が生まれ、ヴァーチャル世界は、かつて経験したことのない暗黒時代へと突入する。
 映画の中の話みたいだと笑い飛ばすことはできない。この世界でもし戦争が起きたら、それこそ破滅だ。一発でも銃弾を受けたら確実に死んでしまうのだ。それがヴァーチャル世界の掟なのだ。
 大人たちは何も判っていない。
(でもお父さんは違う。人々を貧富の分け隔てなく救おうと考えてる。ただ、お父さんひとりにどれだけのことができるか……)
「……やあ、萠黄さん」
 突然呼ばれて、萠黄は心臓が止まるかと思った。
 右を向くと、並んだ窓から伊里江が能天気な顔を覗かせていた。
「……お隣りさんだったんですね」


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