父親は軽く首を振ると、
「彼の身体は一時間後にこの世から消えた。得られた教訓はただひとつ。生半可な小細工では、この現象に太刀打ちできないということだ。催眠術や精神力では、助かる怪我かそうでないか、人間のDNAに刻まれたその記憶を消すことはできない、ということだろう」
「そんな──だってお父さん、さっき可能やて」
「ああ言った」
「もう!」萠黄は寝たまま憤慨した。「ちゃんと教えてよお」
「すまん。じつはまだ検証を始めたばかりの仮説なんだ。だから──」
「それでもええから」
「判ったよ」
父親は頬を赤らめた。久しぶりの親子の会話が彼に生気を与えていることは間違いない。
「私は、砂になった直後の人体、今の場合だと指だが、これを精密に分析した。この時初めて、人間の細胞が砂に変わっていく様子を見ることができたんだ。それはまるで、そう、一個の細胞が生きる意思を失っていくように見えた。細胞膜は破れ、何もかもが干上がっていく。生きることをすっかり諦めてしまったかのように」
父親は足を組むと、天井を振り仰いだ。萠黄は次の言葉を待ちわびて、ひたすら息をひそめていた。
「私は考えた。ヴァーチャル世界の人間は、数日前、ブラックホールによって生成された時、その意思の力を細胞から奪われたのではないかとね。ならばその逆をおこなえばいいのではないか。もう一度ブラックホールからその力を細胞に注ぎ込んでやればいいのではないか」
父親はふっと肩の力を抜き、萠黄に視線を戻した。
「我が社から派遣された研究員が、今ここでやっている実験はそれなんだ。ブラックホールが出すエネルギー粒子を細胞に放射することで、砂にならない力を注ぎこもうとしているんだ」
萠黄は感に堪えないといった顔で父親の姿を見直した。自分の父は、まさに人類を救う方策を日夜模索しているのだ。父は人類のヒーローだ。萠黄は生まれて初めて、肉親に対して尊敬の念を感じていた。
それもこれも、父親と親しく話し合う機会ができたからだ。この事件がなければ訪れることもなかっただろう状況。いや、それだけではない。
萠黄はずっと思っていた。父親に再会したら、ああも言おう、こうも言おうと。これまでに溜め込んだ恨みつらみを全て吐き出し、謝るまで何度も浴びせかけてやろうと。
そんな負の思いはいつしか雲散霧消していた。いや、父親が地下五階に訪ねてきた時から、そんなものはどこにもなかった。
あのせいだ。思い出すのも恥ずかしい醜態。久保田に抱きついて無理矢理キスし、廊下で大声を張り上げ、むんや伊里江に迷惑をかけた一件。あの時に感じた高揚感が、まだ身体の中に残っている。それがなければ父親に会おうともせず、どこかに隠れていたに違いない。伊里江は地震の副作用みたいに説明していたが、結果的には良いほうに働いたわけだ。怪我の功名以外の何ものでもない。
トントンとドアをノックする音がして、萠黄は我に返った。
父親の部下がコンピュータのプリントアウトを持って入ってきた。父親と二言三言言葉を交わし、部下はすぐに出て行った。
「終了だ。計測結果が出た」
萠黄は腕や足の電極を取り外すと、ベッドの上に起き上がった。
「どう? 間違いなくリアルでしょ」
「うん。正真正銘のリアル様だな。おや?」
父親は小首を傾げると眼鏡を外し、プリントアウトに顔を近づけた。
「なんか変な結果でも出た 脂肪値が高過ぎとか」
「足りない……」
「足りない?」
父親は信じられないといった顔で萠黄を見た。
「ここに現れた数字を信用すれば、萠黄の中で増大しつつあるエネルギーが、予想よりも少ないんだ」
「意味がよう判らへんねんけど……」
父親は突然立ち上がると、ドアから外に出て、またすぐ別のプリントアウトを持って帰ってきた。
「これは伊里江君の検査結果だ。萠黄は彼と同じ日にこちらの世界に来たんだったな?」
「そうやけど?」
父親は二枚の検査結果を目の前に並べ、目を行ったり来たりさせている。
「これによるとだな。伊里江君の体内エネルギーは予想どおり増えている。つまりあと九日で臨界に達する」
九日後。それは伊里江兄の告げた『二週間後』に相当する。
「ところがだ。萠黄の数値では、あと十一日後になるんだよ」
「──二日分足りない」
「そうだ。これはとても奇妙なことなんだ。理論的に有り得ないのだが、何か心当たりでもあるか?」
エネルギーが足りない。それはイコール、この世界が吹っ飛ぶ日を先延ばしにできるということだ。まさに驚天動地の出来事と言っていい。
しかし、なぜ──?
二日分、足りない。二日。二日。二。2。
「あっ!」
「どうした? 何かあったか?」
萠黄はあることに思い至っていた。
自分が引き起こしたのかもしれない“二度”の地震に。
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