Jamais Vu
-175-

第12章
予測不可能な事態
(11)

「光嶋萠黄の父でございます」
 スリムなシルエットが深々と頭を下げた。
「あっ、ノーベル──!」
 久保田は言いかけた語尾を途中で濁し、あわてて室内を振り返った。
 萠黄はすぐ背後にいた。久保田はのけぞるように二人の間から退いた。
「萠黄、久しぶりだな」
 光嶋裕二は眼鏡の奥で目を細めながら、我が娘に微笑みかけた。その顔はどちらかと言えば泣いているように見えた。
「──老けたね」
「ああ、白髪が増えたから」
 それだけじゃないと萠黄は思った。
 目尻に増えたシワはひび割れているし、乾燥した肌は病的なほどに白く、ところどころにシミが浮いていた。
 この数年、マスコミに登場することが多かった父親だが、萠黄はそんなニュースや記事をできるだけ見ないようにしていた。あえて避けていた。だから彼女の中の父親像は、彼が家を出て行った時のまま凍結している。
 それだけに目の前の現れた姿に対して、少なからぬショックを感じずにはいられなかったのだ。
(こんなに小さかったっけ?)
「大きくなったなあ。見違えたよ」
 ため息混じりの言葉は懐かしさに満ちていた。
 別の意味で見違えたのは萠黄のほうだった。父親の顔は記憶の中のそれと微妙に異なっている。ヴァーチャルなのだ。
「リアルなんだってな?」
 萠黄の目が吊り上がった。
「──娘がリアルやから、会いにきたん? 貴重な材料として、わたしを精密検査したいん!?」
「そうだ」
 父親は即答した。
「転送装置が精確に動作するよう、萠黄の状態に合わせて調整しなければならない。だからお前のデータが必要なんだ」
 萠黄は返事しなかった。しかし背後から伸びた手が背中をとんと押した。
「行きなさいよ」手が言った。
「ああ、君は近所に住んでいた友達の……」
「お久しぶりです」
 むんはにこりともせずに答え、萠黄を強引に廊下に押し出した。
 それでもぐずっている萠黄に、
「待ってるから」
 そう言って、ドアが閉じられた。
 父親は返事も聞かず、エレベータに向かって歩き出した。萠黄の足は根が生えたように動かない。十メートルも距離が離れたところで、父親はようやく気がつき、足を止めた。
「どうした?」
「お父さんは……お父さんはなんで、お母さんとわたしを捨てて行ったん?」
 父親に会えたら真っ先に訊こうと思っていた質問だった。
「捨てた? ──母さんがそう言ったのか?」
 無言で頷く萠黄。しかし父親はわずかに眉根を寄せると、
「父さんはお前たちを捨てたりはしていない」
「でも」萠黄は舌がもつれるのも構わず、ここが正念場と言葉を続ける「お母さんと別れたんでしょ?」
 すると父親の返事は意外なものだった。
「戸籍上は、今も父さんと母さんは夫婦だ」
「え」
 萠黄は自分の耳を疑った。
「母さんが何と言ったか知らないが、事実だ」
「──死んだよ」
 今度は父親が驚きの声を上げる番だった。
「──殺された。迷彩服に……リアルキラーズに。わたしも殺されそうになった」
「……そうだったのか」
 父親は手を額に当ててうなだれると、そのまま壁に寄りかかり、ずるずると床に座り込んでしまった。
 萠黄は責める眼差しで近寄ると、
「ねえ教えてよ。別れてもないのに、どうしてお父さんは出て行かなあかんかったの?」
「それは……お母さんに懇願されたからだ」
「懇願?」
「お母さんはこう言った。『わたしなんかにあなたの妻でいる資格はありません。どうか別れてください』とな。こんな時代に嘘みたいな話だが、本当だ。私は母さんの真意を問うたが、自分は無学な人間だからと繰り返すばかりだった。
 確かに母さんの実家は貧しくて兄弟も多かったため、母さんは中卒で働きに出なければならなかった。母さんはああ見えて苦労人なんだよ。
 父さんと出会った時、母さんは大学のそばのレストランでウエイトレスをしていた。それはそれは清楚で気品ある女性だった。父さんは友人たちと母さんの争奪合戦を繰り広げたものさ」
(清楚? 気品? あの母が???)
 父親は思い出をまさぐるように言葉を続ける。
「当時の父さんは今よりもっと痩せていて、貧相という言葉がピッタリの風采の上がらない男だった。なのに父さんが母さんを射止めた時、一番驚いたのは友人たちではなく父さんだった。母さんと結婚できた父さんはおかげで自信を持つことができ、それまで以上に研究に邁進することができたんだ。恥ずかしい話だが、それまでの父さんは何をやっても自信の持てない、ダメ男だった。父さんが今あるのは母さんのおかげだ」
「………」
「しかし父さんは浅はかだった。もっと母さんのことを考えてあげるべきだった。
 父さんの研究業績が国内外で認められ多忙になるにつれ、家を空けることが多くなった。家庭を顧みなくなっていった。……母さんがいつから塞ぎ込むようになったのか、それすら父さんは知らない。
 そうしているうちに、とうとうあの日はやってきた。父さんがノーベル賞候補にリストアップされたという極秘情報を、海外のマスコミが一面スクープした日だった。
 母さんは『自分には資格はない』と離縁を申し出た」
 萠黄にとって初めて聞く話だった。母親は一度たりとも、父さんとのことを話してくれはしなかった。
「そうか、母さんは亡くなったのか……」
 父親は両手で顔を覆った。
 萠黄は突如発生した情報の洪水に溺れていた。
 父親の語ったことが本当ならば、ふたりは未だ夫婦なのだ。そして父親は家を出たものの離縁だけは承知しなかった。母親が旧姓に戻らなかったこともそれで説明がつく。
「あのぉ、エレベータにお乗りいただきたいのですが」
 和久井助手のか細い声が、父と娘を現実世界に呼び戻した。
 萠黄は考えるのをやめた。今はあれこれ思い悩んでいる時ではない。
「行こう、お父さん」
 そう言って父の腕に手を通すと、無理矢理立ち上がらせた。何年ぶりかの親子の触れ合いだった。


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