Jamais Vu
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第12章
予測不可能な事態
(10)

 ひたすら恥じ入る萠黄は布団の中から出て来ない。そんな彼女の言動を捉えて、そばであぁだこぉだと議論するのは、どうにも裁判じみて居心地が悪い。
 むんはそう思ったらしく、続きの話は別の部屋でやろうと提案したが、伊里江はダメですとすぐさま却下した。
「……彼女が耳にした、伊椎製作所副社長の言葉が気になります」そう言うと伊里江はベッドのほうに向き直り「……萠黄さん、あなたの口から直接聞かせてもらえませんか? 今後の我々の運命を左右する大切な情報かもしれませんから」
 そう言われては出ないわけにいかない。よけいなことを口走ってしまったとウジウジ考えながら、萠黄はベッドを降りた。重たい足で皆の横に着席する。
 ひやりとするものが頬に触れた。驚いて顔を向けると、むんの手だった。萌黄以上に驚いた顔をしている。
「萠黄、肌が光ってる……」
 すると久保田も覗き込み、
「本当だ。赤ん坊みたいにツルッツルだな。血色もいいし」
 伊里江が膝を打った。
「……神戸の地震のときと同じです。今回も地震と萠黄さんの間に関わりがあるという何よりの証拠ですよ」
 そして目を輝かせながら膝を寄せてくる。
「……この際、萠黄さんも検査を受けてはどうですか?それであなたの不調と地震との関係が科学的に解明されれば、この世界でのリアルの有り様を知ることができます。ひょっとすると隠れた能力を見い出せる可能性があります。災い転じて福となす、です。子供に戻って騒いだぐらいで、恥ずかしがる必要などありません」
 それを聞いて萠黄は気づいた。
(この人は聞いてないんや。落ち込んでる理由)
 初チューのこと──。
 むんには話したが、久保田が喋っていなければ伊里江は知りようがない。萠黄は少しだけホッとした。
 しかし久保田は伊里江の熱弁に違う意味で不快感を示した。
「えらく検査に執着するな。伊椎製作所の連中に洗脳されたんじゃねえか?」
「……!」
 伊里江は色をなした。しかしむんが取りなして、どうにか気分を落ち着かせることができた。
 誰もが不安で、不安定なのだ。
 逃亡生活から解放され、一応は食住の心配はなくなった。しかしこうして地下深く幽閉され、生殺与奪の権を握られてしまうと、ここに来たことが正しかったのかどうか判らなくなる。
「副社長は何て言うてたの?」
 むんが水を向けると、萠黄は思い出しつつ耳にしたことを話し始めた。
 そして副社長の最後の言葉に行き着くと、聞き手の三人は一様に首をひねった。
「リアル以後? どういう意味だい」
「……言葉を補えば『リアルが立ち去った後の時代』。すなわち、リアルを元の世界に送り返した後のことを指しているのでしょう」
 はあーん、と久保田は妙な声を上げた。
「そんな先のことまでは考えてなかったな。とにかくも、リアルがさよならすれば大爆発は起こらない。それしか頭になかったよ」
「……あなただけですよ、そんなに暢気なのは。私はずっと気になっていましたが、推量しようにもデータが皆無でしたからね。議題に上げようとは思いませんでした」
「勿体振った言い回しをするない。考えつかなかったも判らないも似たようなもんだ」
「……違いますね」
「なんだとぉ。じゃ『覇権争い』の意味も解読できるってのか?」
「やめなさい、ふたりとも」
 話し合う三人を尻目に、萠黄は自分を責めていた。
 思慮が足りなかった。
 自分のことしか頭になかった。
 これまで一度だって自分がいなくなった後の世界について、思いを馳せたことがあっただろうか。
 むんや久保田はヴァーチャルだ。どんなに親しい間柄でも、元の世界に連れ帰ることはできない。向こうにはリアルのむんや久保田が存在するのだから。
「……大事なことは」伊里江が両手を広げて話をまとめようとしている。「この研究所も伊椎製作所の人間も、リアル以後がどうなるのか知っているということです」
「そうだ。しかも製作所側は、来るべき時代を見越して、新たなビジネスを展開しようとしている。それが覇権の意味じゃねえか?」
「おそらくは。しかし推測で喋っていてもしかたがありません」
「その通り。だったら今からB5に昇って、連中に糾してみりゃあいい」
「……そうしましょう」
 今度は意気投合したらしい。ふたりは気合い一発、立ち上がろうとした。
 ピンポーン。
 インターホンが来客を告げた。四人がいるのは萠黄の部屋である。
 久保田がドアを開くと、和久井助手がいつもの白衣姿で立っていた。
「あの……これ……」
「え? ああ」
 和久井が差し出したのは、久保田がエレベータに落とした手拭いだった。落とした時は汗まみれで黒く汚れていたのに、これは洗濯されたうえ、きちんとたたまれている。受け取ると触り心地が見事なほど、ふかふかである。
「こりゃどうも、わざわざありがとう」
 丁寧に礼を述べると、和久井はなぜか頬を赤らめた。
「いえ、別件の用がございまして……。こちらのかたが萠黄さんにお会いしたいとのことでお連れしたのです」
 彼女が下がると、ぼんやりと照らし出された廊下に、光嶋裕二博士その人がいた。


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