![]() |
-173- 第12章 予測不可能な事態 (9) |
![]() |
部屋の中では、先刻より押し黙ったままの三人が、テーブルを囲むようにして、それぞれの思いに頭を巡らせていた。 ブーン。シュイーン。 時折、空調が作動したり、遠くで機械音がする以外、この地下十階では物音らしい物音が何ひとつしない。 静けさに耐えられなくなって、久保田はテーブルを囲むふたりに話しかけた。 「やっぱり信じられねえよ。萠黄さんがナマズだなんて話は」 「ナマズ?」 むんが問い返す。 「だって、萠黄さんが地震を起こした張本人だって、そう言うんだろ?」 「……まず間違いないと思いますね。地震発生時、私はメインコンピュータにアクセスしていたので、キャンパス内に設置された地震計のデータを見ることができました。震源地はこの大学、それも萠黄さんがいた辺りでしたよ」 伊里江はリュックパソコンに出した地図をふたりに見せた。それはエネ研を真ん中にした地図で、赤い同心円が丸い建物から波紋のように広がっていた。 久保田は頭に手をやって、ようやく手拭いがないことに気づくと、短い髪を神経質にバリバリと掻いた。 「リアルだからってんだろ? でもそう簡単に結びつけちまうのは、あまりに短絡的じゃねえか?」 「……根拠はもうひとつ、萠黄さんの奇矯な行動です。あなた自身、それを目の当たりにしたのでしょう?」 「エリーさん、言葉を選びなさい」 むんはベッドに視線を送った。膨らんだ布団の下の息遣いまでは聞き取れない。 伊里江は小さく首を振ると、言葉を続けた。 「……萠黄さんが部屋を飛び出してしまったので、残った私はひとり伊椎製作所の人間に捕まり、あれこれと尋問を受ける羽目になりました。さらに、データが必要だと言って、強引にその場でいくつかの検査を受けさせられました。 ……彼らのすることはまったく人権無視です。しかし彼らもひどいですが、置いてけぼりにした萠黄さんもひどいですよ」 「だからそれは」 偶然に父親と対面してしまったから。むんは言いかけた言葉を飲み込んだ。 代わりに久保田が答えた。 「青年。その辺にしとけ。誰しも、どうにもならねえ事情ってものがあるんだ。お前さんだって、兄貴が突然目の前に現れてみろ。冷静になんぞいられないだろ?」 「………」 伊里江は悔しそうに、色の剥げたジーンズに指先を食い込ませた。 時計は六時を回った。配膳エレベータには既に夕食が届いていたが、誰も手を伸ばそうとしなかった。 「──ごめんなさい」 布団の中から、蚊の鳴く声に負けるほどの弱々しい声が聞こえてきた。 むんは努めて柔らかい声で応じた。 「具合はどう? 吐きそうな気分は消えた?」 「──うん」布団の縁がわずかにめくりあがる。「久保田さん。わたしすごく失礼なことをしてしもて」 「いやあ、失礼なんてことは……」 何とも言葉の返しようがない。 十七も年齢の離れた女性に唇を奪われ、年甲斐もなく動揺してしまった。そんなこと、恥ずかしくて言えたものではない。 久保田は事の次第を振り返った。 あの後、フロアには萠黄のけたたましい笑い声がえんえんと流れ続けた。 狂ったように廊下を駆け回ったかと思うと、むんの名前を連呼しながら彼女の部屋のドアを乱暴に叩き、さらには暴れ過ぎて暑くなったのか、久保田の見ている前で服を脱ぎ始めた。部屋を出てきたむんがあわてて抱きとめなければどうなったことか。 ──そして、萠黄の躁状態は、始まった時と同様に、突然終わりを告げた。 風船がしぼんだようにおとなしくなった萠黄は、自分の部屋に駆け込むと、頭からすっぽりと布団をかぶって、謝罪の言葉を呪文のように繰り返すばかりだった。 取り乱す萠黄をあやし、むんがどうにか聞き出したところによると──。 思い出せば、地震が起きた時、身体の奥底から得体の知れないものが込み上げてくるのを感じていた。初めは揺れのため平衡感覚が狂ってしまったのかとも思ったが、エレベータに乗った辺りで、それは温泉のように脳天まで湧き上がり、えも言われぬ快感が全身を貫いたという。 萠黄の脳内は天国のようにハッピーな気持ちで満たされた。そうなるとどうしても笑わずには、走らずには、暴れずにはいられなかった。 ビールすらほとんど飲んだ経験のない萠黄だが、酔っぱらいになった気分だったという。 楽しくなどなれる状況ではなかったのに、なぜあれほどはしゃぎ回ったのか、全く理解できないと萠黄は頭を抱えた。 哀しいことに躁状態にいる間の記憶はしっかりと残っていた。全部覚えていた。だから萠黄は今、死にたいと思うほど、強く落ち込んでいた。最悪の気分だった。 そして最後に漏らした嘆きの言葉は、 「わたしのファーストキスが……」 だった。 |
[TOP] | ![]() |
[ページトップへ] |