Jamais Vu
-172-

第12章
予測不可能な事態
(8)

 駆けていく萠黄の頬を熱い涙がつたい落ちた。
(なんで逃げやなアカンねん。わたしが悪いことしたわけでもないのに)
 それでも足は止まろうとしてくれなかった。机の角に腰を打ち当てても、倒れた椅子に転けそうになっても。
(次に会ったら絶対に訊いてやろうと思ってた!
 なんでわたしを置いて出て行ったのかって!
 その時は『そんなもんだ』なんていい加減な返事やなく、何が何でも納得のいく答えを言わせよう、そう思ってたのに!!)
 エレベータが目の前に迫った。
 すると、まるで萠黄を待ち受けていたように扉がスルスルと両側に開いた。
「萠黄さん!?」
 乗っていたのは久保田だった。萠黄は久保田の胸に体当たりするような勢いで飛び込んだ。
「下に──連れてって」
 久保田はワケが判らず、資料や什器の散乱する研究ルームに目を奪われていたが、萠黄の言葉をやっと理解すると、急いでクローズボタンを押した。
 ふたりを乗せた箱が降り始める。すでに揺れは治まったようだ。
「何があったんだい? あれは地震だったようだが」
「──お父さんが予定時間より早く来てしもて」
「会ったのかい?」
 久保田の腕の中で小さな頭がウンと頷いた。
「そうか……。じゃあ心の準備をする暇もなかったんだなあ」
 太い腕が萠黄の髪をそっと撫でた。
 エレベータは六、七と順調に降りていく。
「俺もさっきはビックリしたよ。地震か?ってんで、エレベータは止まっちまうわ、電灯は点滅し始めるわで、生きた心地がしなかったよ。大海原でぽつんとしてるのは慣れてるけど、狭い箱の中ってのはどうにも始末に負えないね。思わず扉を殴っちまったよ。少しへこんだけど。──ン、どうした?」
 久保田は萠黄の頭に乗せていた手をどけた。
 彼女の身体が不自然なリズムで波打っている。泣いているのとは違うようだ。
「おい、萠黄さん?」
 地下十階に到着した。扉が開く。
 とたんに萠黄は爪先立ち、顔を真上にあげた。伸ばされた彼女の腕が久保田の首に絡み付き、そのまま自分の唇を久保田の唇に重ねた。
「ン、ン、ン!」
 久保田は身も世もないほど動転した。何が起きたのか事態を把握することができなかった。
 萠黄はまわした腕を解こうとしない。それどころかさらに強く唇を押しつけてくる。
「ンーッ、ンンンンンーッ!」
 呼吸もできず、久保田の顔がみるみる真っ赤になった。
 太い手が宙をもがき続ける。
 その手が萠黄の両腕を捉えたのは窒息する寸然だった。 ようやく萠黄の身体を引きはがすことに成功した久保田は、荒い息の下で訊ねずにはいられなかった。
「な、なんで」
 しかし萠黄に返事はなく、代わりに口の両端をぐいと吊り上げると、
「にぃーーーーーーっ。ひゃはははは」
 大声で笑い出したではないか。久保田には何が何だか判らない。
「萠黄さん……どうしたんだよ?」
 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべると、右手でVサインを作ってみせた。
「あはははははは」
 そのまま両手を水平に上げると、飛行機になったつもりか、キーンと奇声を発しながら部屋のほうへ滑空していく。
「……ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 久保田はあわてて後を追うしかなかった。
 エレベータの床には、落とした手拭いが忘れられていた。



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