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-171- 第12章 予測不可能な事態 (7) |
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「まだ数日を要するだと? 冗談も休み休み言え!」 強烈な怒号が、萠黄の覗き見するドアを叩いた。 「生き馬の目を抜く業界のことなど、君のような研究の虫には理解できんだろうが、半日遅れるだけでこの世界の情勢が一変することもあるんだ。すでにライバル各社も乗り遅れまいと動き出しておる。我が社がもし奴らの後塵を拝するようなことになったら、これまでの投資は全てパアだ。野宮君、その責任が君に取れるのかね?」 随分とアクの強い男性である。濃紺の背広を着た後ろ姿しか見えないが、左右の拳をオーバーに振り回しながら騒々しく喋るさまは、シンバルを持った玩具のチンパンジーを連想させて、少々滑稽だ。 それでも当人は至極真面目である。それどころか、ますます怒気を募らせ、言葉を荒げていく。 「リアル以後の覇権争いは、今後ますます活発化していくだろうしな」 (──リアル以後? 覇権?) その時、ようやく萠黄の父、光嶋博士が動いた。ふたりが並ぶと、ダルマと錐のようだ。博士はとりたてて長身ではないが、ひどく痩せぎすなのだ。 光嶋博士の取りなしに、ダルマはようやく矛を収めた。罵声を浴びせられた当の野宮も不愉快そうに眉を寄せていたが、それでも強いて作り笑いを浮かべようと懸命だった。 萠黄としては、これだけの寸劇を見れば、彼らの人間関係は容易に推し量ることができた。 ダルマは萠黄の父が勤める会社、伊椎製作所の“偉いさん”。そして伊椎製作所はこの施設のスポンサー。さらには転送装置の稼働が伊椎製作所のビジネスの行く末に大きく左右するらしいことが汲み取れた。しかし具体的なことは不明だ。 萠黄の目はいやでも彼女の父親に吸い寄せられる。太めの母親が「わたしが虐待でもしてるみたいでいやだ」とよくこぼしていた細身のシルエットは、出て行った時分と少しも変わらない。それをステキと評した女性レポーターがいたが。 そうなのだ。ノーベル賞受賞後、父親はマスコミ各方面で引っ張りだこになった。彼の姿を見ない日はなかった。ために母親は隠しきれないイライラを蓄積し、萠黄はテレビの放送予定を検索して、あらかじめ父親の登場する番組は避けるよう受像機に設定したりもした。 そうまでして父親の残像を払拭するのに努めてきたのに、よりによって父親の出身大学に来てしまい、あまつさえ、こんなところで接近遭遇するなんて。 「で、どこにいるんだ? ひっ捕えたリアルは」 ダルマの鋭いだみ声が萠黄を凍り付かせた。 「今すぐお会いになるので?」 野宮が尋ねると、 「当たり前だ。そうでもなけりゃ副社長の多忙の身で、こんなところまで足を運ぶわけないだろ」 野宮は観念した様子で、こちらですと手で示した。 ダルマと光嶋博士の顔が萠黄のほうを向いた。 萠黄はあわててドアを閉めた。 「……どうかしましたか?」 伊里江がパソコンの間から平板な口調で尋ねた。 「エリーさん、電話、電話はどこ?」 「……萠黄さんの目の前に」 確かに手の届くところにあった。萠黄は飛びつくようにして受話器を持ち上げた。番号に指を伸ばしかけ、初めて自分はどの部屋の番号も知らないことに気づいた。 「久保田さんの部屋は?」 「……和久井さんにもらった資料に番号表が掲載されていたはずですが」 ドアがノックされた。間に合わない! 「いるかね? おー、ふたりともいたいた。こりゃ都合がいい」 野宮助教授は遠慮することなく、部屋に入ってきた。 萠黄は動くこともできず、足許に目を落とした。 頭の中で嵐が吹き荒れている。 全身の血が凄まじい勢いで逆流するのを感じた。 「驚かないでください。このふたりがリアルです」 野宮の声に続いて、騒々しい靴音と端正な靴音が部屋に入ってきた。そして── 「も……えぎ……?」 忘れたくても忘れられないその声色だけは、明瞭に聴き取ることができた。 端正な足の運びが俯いている萠黄の視界に入った。 (わたしたちを捨てて顧みなかったお父さん──) 萠黄はいたたまれなくなり、ぎゅっと目を閉じた。 と、その時、足許がぐらりと揺らいだ。 (もう、こんな時に目眩が──) 心の中で舌打ちしながら踏ん張る。しかし揺れは一向に収まらない 「地震だ!」 野宮が叫んだ。と同時に、一目散に部屋を飛び出していった。 (えっ? 地震?) 研究ルームからは、装置の電源を落とせという野宮の大声が聞こえる。 (目眩とちゃう!) 萠黄は面を伏せたまま、ドアに向かった。背中で父親が何か言ったようだが、振り向かなかった。 余震の続く研究ルームは、行き交う白衣でごった返している。誰もが巨大な転送装置を不安げに見上げていた。 萠黄はその間を縫いながら、エレベータへと一心に突き進んだ。 |
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