Jamais Vu
-170-

第12章
予測不可能な事態
(6)

 光嶋裕二。それが父の名だ。
 野宮助教授に尋ねられ、萠黄は久々にそれを口にした。
 どうしてここに父が出てくるのか?
 野宮の次の言葉を待った。
「今日の夕方、伊椎製作所の研究員が来る」
(伊椎製作所? それって──)
「その中に、一昨年、ノーベル物理学賞を受賞した光嶋裕二博士もいる」
 萠黄は目を閉じた。
「──父です」
 認めるのはたった四文字で事足りた。
「やはりそうか! 光嶋博士はこの大学のOBでもあるんだよ。知らなかったのかい?」
 首を振った。いろんなことといっしょに記憶を捨てたから。
「博士がまだ大学院生の時、私はまだ入学したての学部生だった。ある時、個性的な授業をすることで有名な筵潟先生に会いにいくと、教授の部屋に博士がいた。それが光嶋博士との初対面だった。博士は奥さんと三歳になる女の子を連れてきていた。それが君、萠黄クンだったんだよ」
 野宮が遠い目をした理由が判った。
「初めて見たときから、君とはどこかで会ったような気がしていたんだが、やっと判った。血は争えんものだな。お父さんの面影があるよ」
 よほどうれしいのだろう。助教授の声がうわずっている。
「それだけを伝えておきたかった。博士の到着は五時だ。以上!」
 野宮は鼻歌を歌いつつ、タップを踏むような陽気な足取りで立ち去っていった。
 部屋の空気は一変した。
「こいつは驚いた……萠黄さん、あんたの親父さんは、あの有名人だったのか!」
 久保田は手拭いを解いて、しきりに感心した。伊里江もマウスを掴んだ手を休め、大きく見開いた目から熱のこもった視線を萠黄に注いでいる。
 しかし萠黄は押し殺した声で、
「今は関係ありません。父は母と離婚し、家を出て行ったんですから」
「………」
 むんは事情を熟知している。彼女は表情のない顔でパンパンと両手を叩くと、
「急ぎましょう。わたしたちの仕事は急を要するんやないの?」
 鶴の一声に、久保田はそうだそうだと手拭いを結び直した。そして伊里江の背後にまわると、青年よ急げとばかり、彼の肩を何度も叩いて作業を急がせた。
 萠黄はゆっくりとMacの前に戻った。
 彼女の脳裏に二年前の混乱と狂騒が蘇る。カメラに追われて家まで逃げ帰ったこと。見知らぬ男に誘拐されそうになったこと。一日中電話が鳴り止まなかったこと。母親が始終不機嫌だったこと。そんな母になぜ離婚する時、旧姓に戻らなかったのかと酷い言葉で詰ったこと、などなど。
 萠黄は雑念を振り払おうと両頬を張った。今は救出したHDDのデータを新マシンに吸い取らせる作業に没頭しようと自分に言い聞かせながら。
(でも、五時になったら──)
 野宮は父母の離婚のことなど知らないようだった。父がくればきっと喜び勇んで対面させようとするに違いない。
(お父さんだって、わたしになんか会いたくないはず)
 時計を見る。二時二十分。
 萠黄はもう一度、頬を張った。そしてMacの筐体を開き、HDDのコネクタを内部のソケットに差し込んだ。
 コピー開始。萠黄の作った数々のプログラムが新マシンに吸い取られて行く。
(わたしの頭もコンピュータみたいに不要なデータが消去できたらいいのに)
 隣りでは、リアル候補者への返信メールの内容について、三人が吟味を重ねている。
「……モジ君の選び出したリアル候補の当確者は十六万人中、八千五百人。その全員をここに集めます」
「キャンパス内には講堂はあるけど、さすがに八千五百はキツいな。それにどうやって審査するつもりだろうね。先生がたは」
 またノックがした。今度は和久井助手だった。
「失礼します」
 丁重なお辞儀をして入室すると、彼女はA4用紙十枚ほどが綴じられた資料を各人に手渡した。
「リアル候補の皆さんをお連れするにあたり、必要な事項をまとめておきました」
 表紙をめくってみる。そこには、話に出た講堂らしき建物の図があった。内部に金属探知機のようなものが置かれてあり、講堂の正面入口から一列に進んだ人間が、探知機をくぐったところで左右に枝分かれする様子が描かれていた。
「リアルを瞬時に選別します」
 和久井助手のコメントが入った。
「なぁるほど、これならどんどんさばけるな」
「……来場予定者は、最大で八千五百ですが」
「一度に大勢が押し寄せるということもないでしょうから大丈夫でしょう」
 和久井は適格かつ簡潔に答える。萠黄は改めて彼女の全身を眺めた。化粧っ気もなく、おかっぱとマッシュルームカットをミックスしたような不思議な髪型だが、大学助手だけあって、じつに有能そうだ。
「招待メールはいつ頃送信できますか?」
「……三十分後には可能です」
「では、ここで待たせていただきます。私が確認することになっていますので」
 和久井は言うと、部屋の隅から折りたたみ椅子を持ってきて腰かけた。
 招待メールには、京都工業大学キャンパスまでのアクセスマップを添付する。文面では《あなたはリアルである可能性があります》と告げ、周囲にリアルであることが悟られないよう慎重に行動し、大至急、京都にやって来るよう指示してある。これが身の安全を図る唯一の道であることも書き添えて。
「……送信します」
 伊里江の宣言に、和久井が画面に顔を寄せた。
 キーが押される。あっという間に八千五百通のメールが送られていった。
(果たして、どれだけの人がここまで来てくれるやろか。その中にリアルは何人混ざってるやろか)
 萠黄に限らず、全員が不安と期待の入り混じった気持ちで画面を見つめていた。
 和久井はすっとドアのところまで移動すると、
「ご苦労様でした。これから正門にリアル候補者用ゲートを作るよう、指示してきます」
 そう言って出て行った。すべてに無駄がない。
 招待メールを送ってしまうと、他に急いでやるべきことはない。萠黄はむんに部屋に戻って休んではどうかと提案すると、彼女もそれを受け入れ、久保田に付き添われて部屋を後にした。
 萠黄は時計を見る。まだ午後三時をまわったところ。五時までには間がある。
「ちょっとおトイレ」
 伊里江に断って、入口とは反対側にあるドアを開けた。
女子用のトイレ。便座に座ると音楽が鳴る。これはありがたい。
 ポケットの携帯を取り出した。
「ギドラさん」
 呼びかけると、三つ首の怪獣はすぐに出てきた。
「聞いてたでしょ。あなたの知ってるリアルさんにも来るように言ってよ」
「もうボクのコピーを送ったよ。じき彼が連れてきてくれるさ」
 こともなげに言った。
 トイレを出ると、やけに外から賑やかな声が聞こえてくる。また何か異変でも起きたのだろうか?
 不安に駆られる。我慢できずにドアを開け、顔を覗かせてみた。
(うっ)
 転送装置の前に五、六人の一団がいた。野宮助教授が彼らに向けて、準備の進捗状況を説明している。
 その一団の中に、萠黄の視線を釘付けにする人物が混じっていた。
(──お父さん)



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