Jamais Vu
-160-

第11章
激震
(13)

「あの、どこかゆっくり休める部屋はありませんか?」
 萠黄は野宮に懇願の目を向けた。むんをこのままにはしておけない。
 しかし野宮はすぐに首を振った。
「君たちには当分このエネ研にいてもらわねばならんが、居室の準備がまだできとらんのだよ。あまりに急だったもんでな」
「わたしなら──すいません、どうぞお構いなく」
 わずかに顎を上げたむんの頬は血の気がなかった。それでも萠黄に小さくありがとうと言うと、髪を顔に垂らしたまま頭を下げ、
「お話を続けてください。わたしも聞かなければなりません」
 と胸を張り、居ずまいを正した。
 萠黄には掛けるべき言葉が見つかなかった。
 と、久保田がすたすたとむんの後ろにまわり、背後から彼女の肩に手を置いた。もう片方の手は萠黄の肩に掛けられた。
「俺もヴァーチャルだ。でも何の関係もない。俺たちはみんな生きてる人間だし、仲間だ」
 むんがぎこちなく頷いた。
 萠黄はひとまず胸を撫で下ろした。もちろんどこまで久保田や萠黄の気持ちが伝わったかは判らない。握った手は離してはいなかったが、むんは握り返しては来なかった
「まず、コーヒーをいただいちまおうか」
 久保田の提案に全員がカップを持ち上げた。萠黄はしぶしぶ手を離した。

 部屋は空調のせいで涼しいくらいだ。そのせいもあり、胃に落ちた熱い液体はしみいるような快感となって体全体にじんわりと広がっていった。
 野宮はマウスに触れた。パソコンはスリープ状態から解かれると、大型液晶画面の中央に丸いアナログ時計を表示した。
「あまり時間がない。十一時に政府との定例報告会があるんでな。すまんがとっとと話を進めさせてもらうぞ」
 あと四十分。萠黄たちは姿勢を変えて野宮の顔を見た。
「君たちも午後になれば個別に事情聴取されることになろう。一応覚悟しといてくれ。そのためにも前知識としてこの施設のことや現在我々が置かれている状況を教えておこうと思う」
 画面に建物の平面図が現れた。キャンパスの全体図らしい。萠黄たちの入ってきた通用門のそばで赤い丸が点滅していた。
「これが今いるエネ研──エネルギー工学研究所の実験棟だ。この春、落成したばかりの急ごしらえの建物だが、今や事態の打開を図る研究者の総本山でもある。私や筵潟教授など元からこの大学におった者ばかりではない。関連企業の研究員も多数、席を並べている。まあ迷彩服の嫌らしい連中や政府のお目付役という邪魔者も混じっとるがな」
「……転送装置が完成したそうですね」
 伊里江がぼそりと口を挟んだ。
「そうか、君たちにとって最大の関心事はそれだったな。そう、確かに装置は完成している」
 声にならないどよめきが皆の口から漏れた。しかし野宮は難しい顔をしたまま、
「完成はしたが、実用に至るにはまだ数日かかる」
「どうして?」と、むん。
「うむ……この装置を作動させるには莫大な電力が必要なんだ。学内の設備では京都中を停電にしたって到底足りるもんじゃない。そこで急遽、建物横に発電所をおっ建てることになってな。ここに入る前に見なかったかね? トンカンうるさい音が響き渡っとったろ」
 ははあ、と萠黄が納得の声を上げる。
「エネ研の主たる目的は伊里江真佐吉の計画阻止、つまりは巨大ブラックホールをいかに無力化するかというところにある。転送装置はあくまで偶然の産物だった。しかし切迫した状況で方策はいくつあってもいい。私は政府に掛け合った。『この装置でリアルを元の世界に転送すればブラックホールは生まれないわけで、これもひとつの解決策だ』と。問題はその供給電力だったが、二十四時間態勢の突貫工事を政府が約束してくれたのでどうにか道は開けた。あとはリアルを集めるだけだ」
「……稼働するのはいつですか?」
 話が途切れるのを待って伊里江が質問した。野宮は指を三本立てた。
「予定では三日後。完成すればひとり当たり一時間で向こうの世界に転送可能だ」
 さすが、と久保田が感嘆の声を上げた。しかし野宮は渋面を浮かべると、手の平を激しく振った。
「褒めるのは早すぎる。なにしろまだ一度も実験してないんだから」
「えっ、どうして?」
 久保田の質問に伊里江が答えた。
「……実験台のリアルがいなかったから」
「あ、そっか」
「あのう」萠黄が伸び上がるように手を挙げた。「ブラックホールって光でも何でも全て吸い込んでしまうと聞いてます。だからこそ中を覗き込んでも、真っ暗闇にしか見えないんだと。それなのに、できたブラックホールがちゃんと向こう側に通じてると、どうして判るんですか?」



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