Jamais Vu
-156-

第11章
激震
(9)

(来た!)
 三人は無言で顔を見合わせると、素早くそれぞれの支度に取りかかった。伊里江は無言でパソコンを抱え、流れる動作でリュックタイプに変形させる。むんは常に小脇に抱えるている自分のリュックを背負う。萠黄は携帯をポケットに仕舞い、やはりリュックを両肩に掛けて、足許のナイロン袋を手に持った。中には靴が入っている。
 この数日の経験から彼らは備えることの大切さを痛感していた。いつ敵に遭遇するか判らない。その時に備え、どんな状況にいても逃げることができるよう、大事なものは肌身離さず持ち、常に逃げ道を確保しておくという基本的な心構えを、お互いに認識し合っていた。
 ナイロン袋を持った三人は、おろおろとする夫人に軽く会釈して横をすり抜けた。萠黄を先頭に居間を出る。順番はあらかじめ決定済み。そしてこんな時、萠黄は自分が先頭になることを譲らなかった。
 板廊下を奥へ奥へと摺り足で向かう。
「ストップ」
 手を挙げて制止する。耳をすますと勝手口の外からパラパラという靴音が聞こえた。
 三人はUターンして階段へと急いだ。こうなったら屋根伝いに逃げるしかない。
(久保田さん、やっぱり捕まったんかなあ……)
 胃が鉛を飲み込んだように重い。
(酷い目に遭ったりしてませんように)
 音もなく二階に駆け上がる。すぐの和室を横切ると障子窓をサッと開いた。
「あっ!」
 萠黄の足が止まった。むんも伊里江も気配を察して、畳の上に足を止めた。
 青空の下、隣接する家の瓦屋根が見える。その上には思い出すのも嫌な迷彩服の男たちが、一定の間隔を置いて立っていた。
「プロを甘く見ないでほしいな」
 最も近くにいた長身の男が萠黄に歪んだ笑顔を見せた。まるで子供をあやすように両手を胸の前で振りながら。
(──武器を持ってない?)
 いや腰に銃らしきものを携帯している。なのに萠黄たちに向けてはいない。ただ見張るように立っているだけだ。
「あのぉ……」
 聞き覚えのない声が三人の背後で上がった。振り向くとそこには、おかっぱ頭の白衣の女性が佇んでいた。
 彼女はぺこりと頭を下げると、上目遣いに萠黄たちに話しかけてきた。
「わ……わたしは筵潟研究室の助手の和久井美穂と申します。あの……教授に頼まれて……皆さんのお迎えに上がりました」
「は?」
 三人は驚きのあまり、顔を見合わせた。
「心配するなー」屋根の上から長身の男が叫ぶ。「あんたらを無事に届けるのが俺たちの役目だー」

 玄関先に大型ジープが待っていた。三人は筵潟家の玄関を出ると、命令されるままに後部座席に乗った。
 助手席には和久井と名乗った女性が乗り込んだが、シートベルトを締める彼女の手が小刻みに震えていた。
「出発だー」
 運転手が意味もなく大声で叫ぶ。
 ジープは後ろに大型の兵員輸送車を従えて発進した。
 筵潟夫人が涙目で見送っている。
(お礼も言えなかった)
 ジープはぐんぐんとスピードを上げ、筵潟家はあっという間に見えなくなった。
 むんは萠黄に顔を寄せて、
「わたしら、手錠されへんかったね。荷物も取り上げられてへんし」
「うん。久保田さんがうまく話をつけてくれたんとちゃう?」
「そうやったらいいけど」
 萠黄はいざという時のため、頭に大学までの地図を叩き込んでおいたが、どうやら車はまちがいなくその道を進んでいるようだ。
 と、脇道から突然、自転車に乗った青年が飛び出してきた。
 ゴンッ。
 車体に衝撃が走った。しかしジープは構わず走っていく。振り返った萠黄は、後ろに続く兵員輸送車が倒れた青年と自転車をタイヤの下敷きにするのを見た。
「──!」
 全身に鳥肌が立った。声が出なかった。
 運転する長身の男が、制帽の下の金色に染めた頭髪を撫でながら、
「ダメだなー。外へ出ちゃいけないってあれほど言われてるのに。悪いコだ」
 うっすらと微笑んでいる。
 萠黄は目を逸らした。
(この人たち──人を人とも思ってないのか──いや違う、そうじゃない)
 こめかみが内部から針で刺したようにチクチクする。
(これがヴァーチャル世界の真の姿や! 警察も頼りにならへん無法地帯なんや!)
 和久井助手はずっと震え続けている。もしかすると彼女は何度も似たような光景を目撃したのかもしれない。

 到着したのは、間違いなく京都工業大学だった。
 正門の扉が重たげに開くと、三人を乗せたジープは吸い込まれるようにキャンパスに入っていく。
 ぎょっとしたことに、ジープの通る道の両側に迷彩服の男たちがずらっと立ち並んでいる。彼らの目はどれもジープに注がれ、一様に怒りの色を帯びていた。
(こわーっ)
 萠黄たちは高さ十階ほどの丸い建物の前でジープから降りた。壁には『エネルギー工学研究所』と書かれている。
「すみません……そこに手の平を置いてください……入館管理してますので」
 及び腰の和久井助手が少し離れたところから指さす。
「……静脈認証ですか」
 伊里江が知的好奇心丸出しで認証装置に手を置いた。
「あの……いっしょに目のほうも……」
「はいはい」むんも萠黄も続く。
 建物の周囲は工事の音がうるさいほど鳴り響いていた。裏手で大掛かりな建設工事がなされているらしい。こんな非常時にヘルメットを被った作業員が何人も駆け回っている。萠黄は首を傾げた。まるで政府勧告無視じゃないか。
(ああここは特殊区域やったっけ)
 認証を終えた三人は、早足の和久井助手について建物に入った。背後には先ほどの運転手を含む数人の迷彩服が、鋭く目を光らせたままぴったりとついてくる。
 一行はエレベータに乗った。上に行くものとばかり思っていたが、予想外なことに箱は下に向かって降り始めた。
 ヒューンという不気味な音と共に、階数表示がどんどん下がっていく。
 萠黄の不安は限界に近づきつつあった。


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