Jamais Vu
-155-

第11章
激震
(8)

「じゅうううろくまんんんー!?」
 むんは驚きのあまり、口を開いたまま天井を仰いだ。
「広告の威力ってスゴいんやねえ」
 萠黄は画面に並んだ回答リストをうんざりした面持ちで眺めた。
 SS広告の鏡文字(萠黄にとっては正立文字)メッセージに反応し、返ってきたその数が十六万八千件。
「……みんな家の中にいて、暇を持て余しているからですよ。私は三十万件は来ると踏んでいたのですが」
 伊里江が抑揚のない声で言う。
 むんは首を振ると、棘のある口調で言い返した。
「多すぎるわ。一枚一枚見ていったら、チェックにどれだけかかると思うの。わたしらは人間なんやからね」
 性格がアクティブな分、細かいルーティンワークを苦手とするむんは嘆くように額を押さえた。
 筵潟家の居間。朝食を終えた三人は、ここに場所を移し、今後の計画についてミニ会議を開いていた。
(それにしてもクラシックな家やなあ)
 筵潟家のような住宅は一般に“町家”と呼ばれている。萠黄も話では聞いたことはあったが足を踏み入れたのは初めてである。教授夫妻は娘さんが嫁いで以来ずっとふたりきりの生活を送っている。萠黄が寝かせてもらった部屋は元は娘さんの部屋で、今は客室として使っているのだそうだ。
 建物は古いが、インターネット網は他の一般家庭同様、きちんと敷設されていた。さっきの食堂やこの居間の隅にも液晶スタンドがさりげなく置かれている。
 ここに到着する直前、朝焼けに染まる街角にぼうっと光る液晶画面が郵便ポストのように立っているのを見た。入り組んだ京都の街では、地理に不慣れな観光客たちの地図検索などに大いに貢献していることだろう。そして萠黄たちのSS広告もそこに流れていたはず。
 教授の勤務する京都工大までは、地下鉄で三駅の近さだと夫人は言った。
 むんも伊里江も萠黄も、京都工大に単身乗り込んでいった久保田の帰りを首を長くして待っている。彼が無事、教授に会えたことを祈りながら。
「……私がチェックしますから」
 貴重な時間の浪費はご免とばかり、伊里江はさっさとリュックパソコンを取り上げた。昨夜からむんと伊里江の間にぎくしゃくした空気が漂っている。『ふたりのリアルが同時に危険な場所に赴くのは作戦上好ましくない』と、萠黄のマンション潜入への同行を伊里江が拒否したからだ。
「待って」
「……何か?」
 萠黄は両手を差し出した。
「貸して。わたしがやってみる。ううん、わたしのPAIにやらせてみる」
「……萠黄さんの? ああそう言えば、萠黄さんのPAIはかなり鍛錬が施されていたんでしたね」
 萠黄はポケットから携帯を取り出し、伊里江の引き出したパソコンケーブルに接続した。携帯の液晶画面がポンと明るくなる。萠黄は咳払いをひとつして呼びかけた。
「モジ」
 ややあって画面の隅から緑色のごつごつした身体が現れた。
《なんでっか?》
「あのな、今から画像データを送るんで、書かれてる文章をチェックしてほしいんよ」
《どのぐらいあんの?》
「ざっと十六万枚」
《げっ》
「あんたやったら大した時間はかかれへんやろ。これまでいろんな文章読んで訓練してもろたんやから」
《俺ひとりでやらなあかんの? なんやったら──》
 ギドラのことは禁句! 萠黄はあわてて言葉を継いだ。
「あんたひとりでやるの! 誰も手伝わへん」
《えーっ、辛気くさー》
 チェック方法が説明されると、モジは渋々了解した。
「頼むで。なんせあんたの名前はモジやもんな」
《シャレ落ちかい!》
 お約束どおり、モジは尻を上に向けてひっくり返った。
 あははとむんが笑う。
 伊里江はすべての画像を左右反転フィルタを通過させ、順次、萠黄の携帯へと転送した。
 ドアがノックされ、夫人がコーヒーのお代わりを持って入ってきた。今度は萠黄もありがたくコーヒーをいただいた。今日は気温が低いので、カップの温かさがうれしい。
 夫人は微笑んだだけで下がっていった。久しぶりに華やいだ空気に触れて楽しんでいるように見える。
「これでリアル候補が絞れたとして」むんがコーヒーをすすりながら「その人たちに何て伝える?」
「まずは一時面接、かなあ」萠黄は眉をひそめる。「面と向かって話すなんてわたし向きやないけど、実際に会ってみないと判らんやろうしね」
「うん、集合場所はこの京都がええかな。久保田さんが戻ったら相談しよ」
 モジの作業は三十分で終わった。どうやら念入りにチェックしてくれたようで、伊里江のパソコンに逆転送されたデータには詳細なチェック表が添付されていた。
「記入者の発信元が市町村レベルで判るんやね。おー他にも、記入者が本人であるか否か、連絡先の記入の有無、それに筆跡からの性別や年齢の推定までされてるやん。スゴいねモジくんは!」
 むんが何度も賞賛の声を上げていると、廊下をスリッパの音があわただしく近づいてきた。
 居間の扉が開くや、筵潟夫人は叫んだ。
「大変ですよ、表に怖そうな人たちが!」



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