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-154- 第11章 激震 (7) |
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荒井信之は、その朝ひさしぶりにジョギングに出かけた。 ピッチャーとして長年球団のエースの座を守ってきた彼は、この毎朝のジョギングが日課だった。それはシーズン中もオフも変わらない。彼にとっては、走ることが健康状態を知る最良のバロメータなのだ。 だが数日前、突如として球団から外出禁止令が出された。政府の外出自粛勧告を受けてのものだ。 (バカ言ってんじゃねえよ。これ以上家に籠ってたら、身体より先に頭がどうにかなっちまう) 家族の制止を振り切って表に出ると、朝のすがすがしい空気が待っていたように彼を押し包んだ。 (まだ三十代半ば。メジャーリーグは断念したが、この腕にはもっともっと稼いでもらわなきゃな) ジャージの中でぐんぐん体温が上がっていく。 川べりの歩行者専用道路を走った後、ダッシュで土手を駆け上がり、いつものように街中へと進路を取った。 商店街は静かだった。荒井はまるで知らない町を走っているような錯覚に陥った。いつもならシャッターを開けた店先からいくつもの顔がおはようと声をかけてくれるのに……。 《アッ電話ですー、ハイハイハイ、電話ですー、ホイホイホイ》 ポケットの中でPAIが着信を知らせた。荒井のPAIは、かつてのお笑いコンビ、カゲヒナタが持ちネタの『電話マン』。彼らが人気絶頂の頃、電話会社とタイアップで作られたPAIのひとつである。荒井はいまだに彼らを超える芸人は現れていないと思っている。 「俺だ。わざわざかけてくるなよ。大丈夫だから」 無断で外出した荒井の身を案じた妻がかけてきたのだ。出がけに病的なほど心配顔を浮かべた妻に、途中で電話するからと言ってあったのに、うっかり忘れていたのだ。 「あと十分ほどで帰宅する。それよりも球団からは何か連絡は──」 その時、携帯を持つ腕に痺れが走った。 「ウッ」 虫に刺されたかと、荒井はあわてて腕に目をやった。 その目が地面に落ちていく携帯を捉えた。 落としたと思い込み、荒井はキャッチしようと手を伸ばした。 しかし彼の手は携帯を掴むことはできなかった。なぜなら、手は落下中の携帯を握っていたから。 「な──!」 目の前を赤い雪が舞った。正確に言えば、血にまみれた砂だった。 地面に膝をついた荒井は、信じられない思いで、手首から先のない右腕を眺めていた。真っ赤な砂はなおも噴き出し続ける。 「お、俺の黄金の右腕……」 よろめくように跪いた荒井は、左手で自分の右手を拾い上げた。右手に握られたままの携帯から、もしもし、もしもしと妻が狂ったように呼びかけている。 右手も手首もみるみるうちに砂煙となり、風に飛ばされていく。 荒井の前に、朝陽を遮って人影が差した。 それは、古い映画から抜け出してきたような軍服姿の老人だった。 老人は手に持っていた細い刀を腰の鞘に納めると、表情のない瞳を荒井に向け、ゆっくりと口を開いた。 「歩行中の携帯使用──都条例違反!」 商店街のはずれにバスが止まっていた。 運転席の窓から顔を覗かせていた狐目の男は、戻ってくる老人を認めるとあわてて飛び出してきた。 「閣下、そちらにおいででしたか?」 とってつけたように敬礼して見せる。見ると、駆け寄った男も老人に合わせたように古ぼけた軍服を着用している。 老人はどこか焦点の合わない目で散歩だと吐き捨てた。 「さいですか。そんなことより閣下、ご覧ください」 男は両手を大げさに広げると、背後のバスに向かって振り上げた。つられて老人は見上げる。 「ようやく我々の足を調達することができました。これで閣下も疲れを気にせず、お好きなところに遠征することができますぜ。──どうやって手に入れたか判りますか? なんとバス会社が閣下の噂を耳にし、無償で提供してくれたのですよ。閣下の御威光の前にはもはや不可能はありませんや」 この狐目の男、どうも言葉にも所作にも品がない。無償で提供などと言うが、どこまでが本当の話なのか。 「そんなことより……」閣下と呼ばれた老人の口髭が動いた。「何か私宛に連絡はなかったか?」 狐目の男はハッとして後ろを振り返った。バスの窓から別の男が身を乗り出し、両腕でバツ印をこしらえた。 「まだのようです」 「そうか」 老人は落胆の色を隠さず、腰を折って深い息を吐いた。 「閣下!」「閣下ーっ!」 丸めた老人の背中にいくつもの声が降り注いだ。 バスは他にも数台連なっており、それぞれの窓から老若男女さまざまな顔が老人に笑顔を向け、ある者は手を振ったりしていた。 老人を信じてここまでついてきた者たちなのだ。 老人は彼らに何を与えたわけでも、ありがたい訓話を垂れたわけでもない。なのに気がつけばいつの間にかこれだけの人数が彼を慕ってついてきていた。 判らない。判らないことだらけだ。 この世界も、あの日から鏡像のように裏返ったままである。 そして昨日、まるで自分に宛てたかのような宣伝広告を目にした。まともな向きに書かれた字だった。あわてて返事を書いた。たまたま老人の意識が“良好”だったことも幸いした。 (どこかにおる。必ずおる。私と同じ境遇の人間が) それ以来。老人はひたすら相手からの返事を待ちわびている。 老人は自分を慕う者たちに手を振って応えた。 (どうかその時の私が“正気”でありますよう) |
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