Jamais Vu
-153-

第11章
激震
(6)

 ノックの音がした。
 ゆっくりとノブがひねられる。顔を出したのはむんだ。
「萠黄、朝ご飯よ」
「うん」
「食べられそう?」
「お腹ぺこぺこ」
「ナイスやね。早よ降りといで」
 ドアの隙間からむんの顔が消えた。
 萠黄はベッドの上に起き上がると、軽く身繕いをして部屋を出た。
 食堂には伊里江もいた。既にちゃっかりと食卓に着いている。
「おまたせじゃー」
 キッチンの向こうから、山盛りの野菜サラダを抱えたむんが出てきた。その後ろでお盆にトーストを重ねているのは筵潟夫人である。
「大したものはないけど、遠慮なく召し上がってね」
 萠黄はすみませんと頭を下げ、むんの横の席に座った。
 意外な展開。昨日会ったばかりの久保田さんの、その恩師のご自宅で朝食をいただこうとしている。
(なんか不思議)
 いただきますと四人の声がハモった。
「コーヒーでも紅茶でも、お好きなほうをどうぞ」
 夫人の勧めに、むんと伊里江はコーヒーを選んだが、萠黄は紅茶を所望した。
「珍しいなあ」
 むんがからかったが、今朝の萠黄には自然な選択だった。
(気分が高ぶってる。今にも弾み出しそうな)
 ティーカップに口をつけると、さざ波のような穏やかさが身体じゅうに広がっていく。疲れもいっしょに洗い流されていくようだ。
 昨夜はこの近くで路上駐車し、車の中で仮眠を取った。久保田に連れられて筵潟家に到着したのは今朝方のこと。肝心の教授が大学の中に寝泊まりしてると聞き、一時は落胆した久保田だったが、夫人が会える手はずを整えてくれたらしく、勇んで大学に向かった。
「様子を見てくるから、連絡を待っててくれ」
 残った三人は車に戻ろうとした。それを夫人が呼び止めた。よかったらウチで休みなさいと。
「こんなに賑やかな朝食は久しぶり」
 夫人が感に堪えないといった顔をしている。
「わたしもです」むんが言う。
「あらそうなの」
「……私も」ぼそりと伊里江。
「あらまあ」
「わたしも──」
 言いかけた萠黄は口をつぐんだ。
 むんと伊里江はずっと家族なしで過ごしてきた。自分には少し前まで母親がいた。でもこんなに穏やかな朝食風景があったろうか。
(母さんはいつも口うるさくて落ち着かへんかったな)
 それでも思い出すたびに、あの日々を渇望している自分がいた。一体どちらが本当の自分なんだろう?
「萠黄さん。お加減はどう?」
 夫人が尋ねた。萠黄はあわてて頭を下げる。
「ありがとうございます。おかげ様でだいぶよくなりました」
「そう、それはよかった」
 何げない会話なのに、今の萠黄にはじんと来る。
 昨夜、自宅で気を失った後、久保田が車まで運んでくれたらしく、気がつくとリアシートの上だった。
 その頃にはもう京都市内に入っており、あれが東寺だと久保田の指さすのが聞こえた。
『人類の未来を……君に……託す』
 岩村は確かにそう言った。
(誰かに何かを託される資格なんて、自分にはあるんだろうか。わたしに何ができるというんだろうか──)
 車の天井を見つめながら、萠黄はそんなことばかり考えていた。
 カーブを曲がった時、見上げる車窓に月が現れた。
 月はその輪郭を滲ませると、母親の顔になった。
 母は砂になりながらも、萠黄に笑いかけていた。
 月は次に伊里江のヴァーチャルになった。
 彼は想いのたけを込めた視線を萠黄に送っていた。
 目を閉じてみる。
 すると瞼の裏に、他にもたくさんの人の顔が浮かんできた。
(名も知らない警部さん、揣摩さん、柳瀬さん、ホテルの女将さん、猫のウィル……。もう一度みんなに会いたい)
 それが唯一の願い。そのためには──。
「ごちそうさまでした」
 むんは久しぶりの落ち着いた朝食に満足げだ。立ち上がって空いた皿を重ね、流しに運ぼうとする。
「あらあらいいのよ、わたしがするから」
「いえいえ、これくらいさせてください」
 そんなやりとりを見ながら、伊里江がぼそっと呟いた。
「……むんさんって、いわゆる、いい奥さんになれるタイプでしょうか?」
 萠黄はむっとしたが言葉が見つからない。しかたがないので伊里江の目の前からわざとらしく皿を取り上げ、自分の皿に重ねると、すたすたと流しに運んだ。
 夫人はただただうれしそうに眺めている。
 萠黄の脳裏に昨夜の月がぽっかりと浮かんだ。
『そのためには──』
 ……やれることをやるだけよ。


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