Jamais Vu
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第11章
激震
(1)

 野宮甲太郎(まや・こうたろう)は口をモグモグと動かしながら、不機嫌な顔で空を睨んでいた。
 濃淡の入り混じった灰色の雲は、三方を山に囲まれた空を隙間なく埋め尽くしている。
「降るなら早く降りやがれ」
 白衣の下の突き出た腹が、悪態に同調してぶるんと揺れた。
 野宮は中途半端が嫌いだ。それは人為の及ぶか及ばないかにはよらない。現に今も降りそうで降らない天候にいらつきを隠さない。
 野宮は噛んでいたガムを空の一角に向かって吐き捨てた。ガムは見事な放物線を描いて、ゴミ箱に吸い込まれていった。
「あー、ゆっくりと寝てみたい!」
 大声に大きな欠伸が続いた。
 午前七時。京都工業大学の広いキャンパスは静かな朝を迎えた。
 昨夜は日付が変わるまでラボにいて研究員たちの陣頭指揮を執っていた。目の奥にはモニターに明滅する解析データや実験室のレーザー光の残像が焼き付いている。野宮は眉間を乱暴に揉みほぐしつつ、仮住まいにしているゲストハウスの玄関から外へ出た。
 向かう先には、彼の所属するエネルギー工学研究所、通称エネ研がある。
 学生として入学して以来二十余年。彼は青春をこのキャンパスで過ごし、長きに渡る研究生活を送ってきた。博士課程一年の時に、たまたま助手のポストが空席になり、誘われて教員となった。元来が頑固なこだわり屋で、適当に周囲と折り合いをつける社会性は持ち合わせていなかった彼にとって、その誘いはまさに渡りに船だった。
 以後、他の講座の教授連や事務畑の人間たちと衝突を繰り返しながらもここに居続けられたのは、自分を助手に引き立ててくれた恩師、筵潟教授のおかげだ。
 教授はこの春、定年を迎えた。にもかかわらず依然として研究室に鎮座しているのは決して当人の意思ではない。
 筵潟研究室の卒業生にして、ブラックホール研究の世界的権威として名を馳せた伊里江真佐吉。彼はこともあろうにブラックホールを研究室の中でこしらえてしまった。それが自分や世界にどのような影響を及ぼすのかも考えずに。
 伊里江は自らの研究がイカサマであったという言葉を残し、失踪した。
 だが再び世に現れた時、伊里江はテロリストと化していた。彼は指先一本で北海道の大地を、六百万人の命とともに宇宙の藻屑と消したのだ。
 伊里江は政府に対して強圧的な要求を突きつけた。今度は北海道程度では済まないぞという脅し付きで。
 政府も手をこまねいてはいなかった。伊里江の出身大学──中途退学だが──の京都工業大学に、伊里江に対抗する方法はないものかと相談を持ちかけてきた。いや相談などというレベルではない。
『お前たち研究者が後先考えずに突っ走るから、こんな事態に至ったのだ。自分の尻は自分で拭いてもらおう』
 言葉は違うがそれに近いことを、入れ替わり立ち替わりやってきた政府の役人や代議士は言外に臭わせた。
 おかげで春先から、筵潟研究室はずっと臨戦態勢が続いている。
 ブラックホール研究は、天才伊里江がアメリカに渡った時点で後塵を拝してたが、以後も地道に研究は続けられていた。伊里江がペーパーや報告の形で残したものを取り入れて、遅ればせながら今、彼が持ち逃げした研究の秘密に迫ろうとしている。
 しかし──。
 間に合わない。それが研究室としての結論だった。もちろんそんなことは口が裂けても言えない。「あと少し」と具体的な報告を避け続けている。政府が「あと少しでワクチンが完成します」と空証文で世間の騒ぎを収めようとしたのと大差はない。
 とはいえ、自分たちの研究が全く役に立たなかったかと問われれば、椅子を蹴って立ち上がり、こう怒鳴り散らすだろう。
「リアルワールドへの道を開くことができた。あんたがたがリアルを捕えてくれば、一括りにして向こうの世界に投げ返してやる!」
 実際、昨日の報告会で野宮はそれをやった。Xデーが近づくにつれ、いら立ちを隠せない政府のお目付役に浴びせてやったのだ。隣りに座った筵潟教授が、その辺にしときなさいと制止の手を上げなければ、相手の椅子まで蹴り飛ばしていたことだろう。
(ふんぞり返って威張ってる暇があったら、リアルの一人でも引っ張って来いってんだ。噂では、銃で撃ったくらいじゃ死なないって話だから、送り返すしかないじゃないか)
 野宮は足許の石くれを拾い上げた。両足を揃え、ピッチャーのモーションよろしく、大きく振りかぶって投げた。石くれは狙い過たず、遥か離れた外灯のポールに当たった。カーンと鋭い音が辺りに響く。
 すると、それが合図ででもあったかのように、銃器を身に付けた連中が駆け寄ってきた。みな一様に迷彩服を着ている。野宮がニヤニヤ笑いを浮かべて眺めていると、迷彩服たちは「またお前か」という顔で睨みつけながら、もと来たほうへと戻っていった。
 彼らは二十四時間態勢で学内を警備している。国が派遣した部隊だが、警察や自衛隊とは無関係と聞く。
 エネ研は今日本で最も重要な場所だ。伊里江に対抗する最後の砦と言っていい。野宮もその自覚を持って日夜結果を出すべく励んでいる。
 よってそこに携わる者に不測の事態があってはならない。研究者が安心して仕事に没頭できる環境を保つ必要がある。
 昨今の世情は極めて不安定で、先の予測がつかない。現に東京ではデモ行進が起きているし、長野では私設警察もどきの奇妙なグループが跋扈しているという。
 京都も例外ではない。「家でじっとしているように」との政府勧告を無視し、世界の終末が近いとばかり暴れている連中がいる。昨夜もキャンパスの壁際で何度か騒々しい警報が鳴った。不逞な輩が近寄ったのだろう。野宮の寝不足の一因である。
(それよりうっとうしいのは、この連中なんだ)
 別の迷彩服がふたり、鋭い視線をよこしながら通り過ぎていく。野宮はおどけた顔で口笛を吹き、カニのように横歩きをして見せた。迷彩服のひとりは顔を真っ赤にして突っかかろうとしたが、相棒が相手にするなとたしなめた。
(お前たちの本当の任務は、俺たち研究者の監視じゃないのか?)
 研究を放り出して逃げることのないよう、背後の暗がりから静かに銃口を向けている。野宮にはそう思えてならない。
(なんでこんなことになったのかねえ)
 エネ研の玄関が近づいてきた。
 ふと、遥か右手にある通用門に目が留まった。わらわらと迷彩服たちが駆け寄っていくのが見える。どうやら重い門扉の向こうで、誰かが喚いているらしい。
 なんとなく虫が騒ぐ。
 野宮は吸い寄せられるように通用門へのスロープを降りていった。


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