久保田はじっと動かなかった。萠黄にも口に指をあてて合図すると、カーペットの上にあぐらをかき、旧友岩村の背中に視線を固定させた。
久保田はいま萠黄とともに彼女の部屋にいる。開いた入口には岩村の後ろ姿が見える。岩村は倒れた仲間の女を介抱している。おそらくそう長くはもたない、サキという名の女性を。
彼らは萠黄が“迷彩服”と呼ぶ、リアル暗殺部隊に所属している。すでにサキには萠黄の正体がバレている。一刻も早く逃げたい状況だ。
だが肝心の部屋の入口には岩村が陣取っている。おそらく岩村も武器を帯びていると思われる。
半ば朦朧とした萠黄を連れて、岩村の横をすり抜け、うまく逃げることができるだろうか? かなり難しい。
ところで岩村は、サキに駆け寄った時こそ久保田たちに鋭い視線を投げたものの、以後は全く気にかける様子もない。いやそれどころではないのだ。
岩村の腕のなかで、彼の愛する女性が命の炎をいま消そうとしていた。
そして岩村自身の身体も──。
「わたしのせいだな、その脚──」
「言うな」
サキの言葉を遮ると、岩村はまくり上げたズボンを下ろした。彼の左脚の砂状化はすでにふくらはぎに達している。流れ弾の当たりどころが悪かったのだ。
「なるべくしてなったんだ。気にすることはない」
岩村の苦痛は相当なはずだが、そんな気振りはおくびにも出さず、ひたすら彼の腕に身を委ねるサキを思いやっていた。
「俺たちがこんな任務を請け負ったこと自体、まちがいだった気がする。そうは思わないか?」
「そうだね。リアルったって、元はただの民間人なんだから、わたしらみたいな傭兵のプロがやる仕事じゃな──」
ゲホゲホッとサキが砂を吐いた。彼女の首筋や手からはすでに肌つやが失われ、指の何本かは付け根から床にこぼれ落ちていた。
「イワ、わたしを抱いてて」
「判ってる。ずっとこうしてるから」
今度は、岩村の左膝がザザッと裾から流れ出た。彼は歯を食いしばってその痛みに耐えている。
「イワ」
「なんだ?」
「向こうのあんたは──告白してくれるかな?」
「ああ、するさ。俺が連絡してやる。おまえら相思相愛なんだってな」
サキの顔がみるみる土に変わっていく。瞳からも光が消え失せた。
「わたし──」
「おう?」
「わたし──あんたの子供が欲──」
せまい空間に白い竜巻が起こった。久保田の目にはそう見えた。霧のようなものが渦に乗って舞い上がると、竜巻はあっという間にどこへともなく消えてしまった。
あとには砂になったサキをかかえた岩村がいるだけだった。
彼は床の上にそっとサキの亡骸を置いた。サキの唇には彼女が最後に言おうとした言葉が名残をとどめていた。
「久保田」
「──ここにいる」
岩村はゆっくりと顔を向けた。
「大学に戻れ。筵潟先生のもとへ」
「──教授の? なぜ?」
「これはトップシークレットだが、先生の研究室では伊里江の野望を砕く方法を探って、奴の研究成果である人工ブラックホールを再現しようとしている」
「………」
「ところが、十日やそこらじゃとても間に合いそうにないらしい。──ただ副産物として、元の世界と鏡像世界をつなぐ道が開けそうだと聞いた」
「ええっ!?」
大声で反応を示したのは萠黄だった。ふらつく身体で前で出ると、両手をカーペットについたまま、岩村の顔に見入った。
「──そうだ」岩村は苦しげに息を継ぐ。「リアルを殺す必要はない。そこから元の世界に送り返してやればいい」
「そうか、判った」
久保田は何度も頷いた。おそらく岩村はこのことを話したかったのに違いない。まさか久保田が息子と偽って連れてきたのが、当の光嶋萠黄とは知らなかっただろうが。
「──萠黄──さん」
岩村は萠黄に向けた。
「はい」
「あんただろう? 不法なSS広告で仲間を募集してるのは?」
「……そうです」
「──ちょうどよかった。まだ生きてるリアルを集めたら、いっしょに元いた世界に帰りな。そうすりゃ万事メデタシだ」
萠黄は、わかりましたと答えた。
「銃弾を跳ね返したあんたなら、生き延びられるだろう。久保田を信頼してついていけ。そいつは頼りになる」
「イワ!」
久保田は友人に駆け寄り、彼の両肩を支えた。
岩村の顔や手は鉛色に変わっている。おそらくもう限界だろう。
「萠黄さ……」
「はい」
「人類の未来を……君に……託す」
その時、岩村の顔が強ばった。内臓が砂になり、心肺機能が停止したのだ。
「モウ……ヒトツ……俺ニ伝エテクレ……サキヲ──」
ごそっと身体が揺れたかと思うと、岩村の頭部は縦に割れ、そのままサキの亡骸の上に落下した。
萠黄の悲鳴が夜のとばりを切り裂いた。
久保田は気を失った萠黄を背負ってマンションを出た。むんの運転するライトバンがすぐ明かりをつけ、近寄ってきた。
萠黄は後部座席に寝かされた。
久保田は路上から六階を振り仰ぎ、両手を合わせて岩村とサキの冥福を祈った。そして運転席に座るとすぐにライトバンを発進させた。
「……萠黄さんのファイルは?」
伊里江が問うと、久保田はアゴでバッグを指し示した。
伊里江は穴のあいたバッグからパソコンを取り出すと、口をぽかんと開けて、激しく歪んだパソコンとバッグの穴を見比べた。
「ダメだろう? 無駄足だったな」
久保田が残念そうに言うと、伊里江は首を横に振った。
「……おそらくハードディスクは大丈夫だと思います。うまく筐体を取り外せば」
「そうか──なら、分解するのにとっておきの場所を知ってる。夜も遅いが、これからすぐに向かおう」
四人を乗せたライトバンは、進路を京都に向けた。 |