Jamais Vu
-146-

第十章
託されたもの
(15)

 バランスを崩したところに、たまたま和室の入口が開いていたのが久保田に幸いした。
 傭兵でも兵隊でもない、単なる漁師あがりの板前だった彼に自慢できることといえば、インターハイを制した柔道ぐらいなものである。とっさにひるがえした身体はそのまま狙撃者の死角へと倒れ込んだ。
「クッ、痛ぇ」
 畳の上をだるまのように転がった久保田は、そこにあった和箪笥の縁に頭を打ちつけた。軽い脳震とうが彼を襲う。が、それもわずかな間で、すぐ膝をついて立ち上がると、
「萠黄さん!」
と、ふらつく頭で一声叫んだ。
 しかしマシンガンの連射音が廊下に反響し、直後、ドサッと重いものが床に落ちる音がすると、ああっ! と絞るような声が彼の喉から漏れ、上がりかけた膝が畳の上に落ちた。
(やられたか!?)
 久保田は四つん這いで入口ににじり寄った。こわごわと廊下を覗き込んだ目に映ったのは、壁に背中をつき、両足を投げ出して座り込んだ女の姿だった。そばにはマシンガンが落ちている。
 女は全身に痙攣を起こしながら、何もない宙を凝視している。まるで信じられないものを見てしまったかのように。
 久保田は呆然とした状態から立ち直ると、和室を飛び出し、急いで女のマシンガンを取り上げた。
 あらためて久保田は事の不可解さに驚いた。女の身体にはいくつもの穴があいており、そこからこんこんと血が湧き出している。
(萠黄さんが撃ち返したのか!?)
 萠黄もピストルを持っていた。それで彼女も反撃したのだろうか。
 そう考えたのも束の間、久保田は萠黄の姿を追って、彼女の部屋に向き直った。
 相撃ちで萠黄も血まみれに──。
 細めた目を室内に向けた久保田は、そこに無傷で倒れている萠黄を見て、おお! と心の底で大きな声を張り上げた。
「萠黄さん──あんた無事なのかい?」
 気のせいか、久保田の目には萠黄がまばゆく輝いて見えたが、それは一瞬のことだった。
 萠黄が薄目を開けて、反応を見せた。
(しかし、どういうこっちゃ、こりゃあ)
 久保田はうならずにはいられなかった。
 それは異様な光景だった。
 萠黄の周囲には無数の弾痕があいている。カーペットの上にも机の引き出しにも。それらが女の撃ったものであることは疑いようがない。
 だが萠黄の寝そべっていた場所だけは、何の痕もないのはどういうことか? しかも彼女は持ってきたはずのピストルを握ってはいなかった。
 すぐそばにバッグが落ちている。加太の女将が彼女にパソコンを渡した時に持たせたバッグだ。その真ん中には黒々と丸い穴が空いている。
「ク……クボラしゃん」
 まわらない舌で萠黄が彼の名を呼んだ。久保田は我に返り、膝を折って彼女に顔を近づけた。
「どこか痛いところはないかい?」
「ううん、へいひ(平気)」
 萠黄は身じろぎし、なんとか起き上がろうとするが、体中が痺れてでもいるのかうまくいかない。
 久保田はとりあえず萠黄の無事にホッとすることにした。手を貸して、彼女の上体をベッドにもたせかけてやると、
「パホホン、ほわれれもーた(パソコン、壊れてもーた)」
 萠黄は泣き笑いの表情を浮かべている。
「そうか、あのバッグに入れたんだね。君の盾になってくれたのか」
 それでも理解できない、と久保田は首をひねる。まさか雨のように降り注ぐ銃弾をすべてパソコンで跳ね返したわけでもあるまいに。しかもバッグの貫通孔はひとつ──。
「サキっ」
 背後で岩村の声が女を呼んだ。振り向くと、岩村は両手で女を抱いていた。
「おい、しっかりしろ!」
 岩村はサキの銃創を確かめようと、彼女のジャケットをナイフで切り裂き、Tシャツをたくし上げた。
 久保田にもサキの傷口が見えた。流血はすでに止まっていたが、傷口からは真っ赤に染まった砂がこぼれ落ち、その周囲は土気色へと変色の輪が広がっていた。
「サキ、死ぬな、俺を置いていくな!」
 その声にサキの顔がピクッと動いた。サキの目が岩村の顔に焦点を結ぶと、
「──よお、イワ、いたのか」
「いたのかじゃない! お前が帰ってくるのを腹すかして待ってたんじゃないか」
「──スマンな、閉まってるコンビニに忍び込んで、ようやっと手に入れてきたんだ。ほら、イワの好きな“えびせん”もあるぞ」
 岩村の目からは涙があふれていた。
(そうか、イワの奴、この女のことを……)
 しかしサキの命がまさに消えようとしていることは明白だった。
「サキ、ゆうべ言ってたよな? 遠いところに好きな奴がいると。そいつに伝えてほしいことはあるか?」
「──なんだよ、つまんないことを覚えてやがるんだね、この男は」
 サキは岩村の腕の中でかすかに微笑した。
「──その人は」
 突然、サキは苦痛に顔を歪めた。
「おい!」
 岩村がサキを強く抱き寄せた。すると痛みが治まったのか、サキはいくぶん表情を和らげ、
「──その人はね、ずっとずっと遠くにいるんだ。わたしの声なんて届かないくらい遠くにね」
「遠距離恋愛か。サキらしくもない」
「──彼は、リアルの世界にいるんだよ」
 岩村は口をつぐんだ。どういうことだという顔をしている。
「──彼とは傭兵学校に入った時からずっといっしょだった。困った時や悩んだ時、いつもわたしを助けてくれた。──優しいくせにそう思われるのがイヤならしく、会えばいつも喧嘩ばかりで。──そんな時はえびせん渡してやればニコニコするんだから、子供っぽいよね」
「………」
 岩村は硬直したまま、無言でサキの口許に目を落としている。
「──わたしがこの部隊を志願した理由は、彼を守るためさ──リアルを全部消せば、元のリアルの世界は壊れないで済むんだろう? そしたらリアルの私はずっとその人のそばにいられる」
「お、俺も……じつはお前のことが、ずっと……」
 岩村は咳き込んだ。そんな岩村にサキは微笑みかける。
「──知ってたさ、あんたの気持ち。いつ言ってくれるんだろうと思って待ってたのに、いまわの際に聞かされるとはね」
 長年の戦友は、いま初めて、互いの真っすぐな視線を絡め合っていた。
「サキひとりで三途の川を渡らせたりはしないよ」
 岩村は左膝を前に出した。しかしそのズボンの裾は異様に平べったい。彼が裾を上げると、そこにはあるべき足首がなく、ふくらはぎの辺りから砂になった肉体がぼろぼろと崩れ落ちていた。
「──イワ、それ、わたしの撃った弾が……」
 岩村は、へへっと笑った。



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