Jamais Vu
-143-

第十章
託されたもの
(12)

 食糧の入った袋を両手に下げた女は、靴も脱がずにその場で立ちすくんだ。
「──光嶋萠黄」
 女の口が自分の名をつぶやいた時、萠黄は彼女が誰であるのかを思い出した。
(学園前のモデルハウスで、わたしたちをマシンガンで撃った──)
 短い髪に今はバンダナを巻いている。太い眉毛は忘れようがない。名前をサキといったはずだ。眉の下の瞳が異様な光を放った時、萠黄は毛穴という毛穴から汗が噴き出すのを感じた。
 サキは持っていた袋から手を離すと、左手を腰に延ばした。彼女は迷彩服を着ていない。薄いピンクのTシャツに黒のパンツ、薄手の黒のジャケット姿だ。そのジャケットの下からサキは武器を取り出そうとしているのだ。
(またモデルハウスの時の再現や!)
 撃たれる、逃げやな──。
 思いながらも萠黄は腑に落ちないものを感じていた。
(なんでこんなにあれこれ考えてんのかな?)
 萠黄の目はサキの動きを追い続ける。サキの左手に銃が見えた。ふたりの間はわずか三メートル。こんな至近距離で銃弾を浴びたら、伊里江に撃たれた以上の衝撃を受けるのではなかろうか?
(また、いろいろ考えてる)
 その時、萠黄は相手の異常さに気がついた。
 サキの動きがひどくのろいのだ。今も取り出した銃口を萠黄に向けようとしているが、まるで超高速度カメラで撮影したフィルム並みにゆっくりと動いている。
(これは、夢?)
 夢。幻。そんな言葉が萠黄の心に浮かんだ時、彼女は現実感を急速に失い、目の前にある現実に対処するのがわずかに遅れた。
 銃の筒先が、まるで戦場にそびえ立つ巨大な野戦高射砲のように、ゆっくりと萠黄のほうに照準を向けてくる。
 萠黄はついに事態を理解した。
(時間が、時間がゆっくり流れてる!)
 そんなSFじみたことが、という思念を、別の思念が打ち消した。
 自分は一度、伊里江の放った銃弾を跳ね返している。
 伊里江もピンチに際し、ガスを操ることで敵を撃退した。
 ヴァーチャルの世界において、リアルは文字どおり異分子である。リアルに何が起こるのか、何ができるのか、はっきりと判ったわけではない。
 判ったわけでは──。
 サキの銃身が天井の電灯の明かりをギラリと照り返した。その光がようやく萠黄に現実感を取り戻させた。
(あわわ!)
 すでに逃げる余裕はない。背中では自室の扉が半ば開いている。すぐに駆け込んでいれば、あるいは第一撃をかわすことができたかもしれないのに。
 サキの指が引き金を引いた。
 銃弾が飛び出す。
 萠黄は反射的に膝の前に下げていたバッグで身体をかばおうとした。
「クッ!」
 両腕に思いもよらない荷重がかかった。たかがバッグひとつがなぜこんなに重いのか? まるで洪水の流れの逆らって、重いタンスを引き上げようとするかのように。
(空気が邪魔してるんや!)
 銃弾が迫ってくる。萠黄はバッグを構えようと腕に力を込めた。
(そういやバッグの中には──)
 ゴスンという鈍い音。
 銃弾がバッグにめり込んで止まったのだ。
(あー、しもたっ、やってもーたっ)
 萠黄は自分の迂闊さに顔をしかめた。
 なぜなら、盾となって彼女を守ったのは、PowerBookだったからだ。さっきコピーが終了し、いつでも脱出できるよう、バッグに放り込んであったのだ。
(わざわざ危険を冒してやってきた意味がー)
 萠黄は撃たれた反動で、そのまま自室の中へと倒れて込んだ。

 サキは倒れていく萠黄を、これ以上ないほど大きく開いた目で見つめていた。
(何が起こった? 一瞬、あのコの姿がぼやけたように映ったけど)
 サキにとって、リアルとは忌むべき化け物である。いずれこの世界に終焉を招く“種”だからというだけではない。彼女はモデルハウスでその悪魔的な技を目の当たりにしている。
 萠黄といっしょにいた、青白い顔の男。奴もリアルに違いない。炎のムチを生き物のように動かして、仲間を次々と殺していったあの男。
 あんな存在を許してはならない。この世のバランスを崩すような悪魔は、すべて抹殺しなければいけない。
 リアルの世界にいるカレのためにも──。



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