(伊里江真佐吉ーーー!?)
萠黄は悲鳴を上げそうになり、口を押さえてどうにかそれをこらえた。
(なんでここで、エリーさんのお兄さんの名が!?)
萠黄は自分の耳が信じられなかった。廊下の先から聞こえてきた話によれば、久保田さんはよりによって迷彩服の岩村のみならず、伊里江の兄とも縁があるというのだから。
すでにファイルの転送は完了していた。
パソコンの電源を落とし、PowerBookをバッグに収めた萠黄は、用が済んだことを久保田に知らせようと、静かに自室の扉を開いた。
そこで聞こえてきたのが、むかし久保田が、在籍した大学院を出奔し、漁師の世界に身を投じた話、そして入れ替わるように真佐吉が現れた話なのだった。
久保田までの距離はおよそ八メートル。萠黄に見えるのは久保田の横顔だけで、斜め向かいのソファに腰かけている岩村の姿は、和室の壁の陰になって見えない。
久保田は岩村の話に心を奪われている。萠黄も真佐吉に関する情報ならぜひ聞いておきたい。
喉から飛び出しそうな心臓を抑え、萠黄は扉から顔を半分出すと、両耳にその全神経を集中させた。
「なんだ、イワ、その伊里江ナントカさんにオマエ、助手の座を明け渡しちまったのか?」
「まだ助手になる前だ。いや結局俺はなれなかったんだ。……まあ俺のことはいい。問題はその伊里江って奴よ」
「問題?」
「一般には公表されてないが、北海道が忽然と消滅した例の事件、あれは伊里江の仕業なんだ」
「ナニッ!?」
「順を追って話そう。伊里江は俺たち研究室の一員になると、すぐに頭角を現した。アッという間に基礎学問を修得すると、研究室の主要テーマであるブラックホールに関する仮説を次々と提出し始めた。そのペースたるやとても人間業じゃない。わずか一年で指導教授に『参った』と言わしめたんだからな」
「ふーむ」
「当時、俺は思ったもんよ。コイツぁきっと未来から紛れ込んだ、進化した人類じゃないかってね。だって奴は決して研究の虫じゃなかった。顔がいいから女の子とも頻繁にデートしていたし、コンサートや映画が好きで会場や映画館に足しげく通ってやがった。言葉は英仏独伊その他ペラペラで、楽器はどれも玄人はだし。
だから……俺は大学院を辞めちまった」
「辞めた? オマエも?」
「そうだよ」岩村は苦虫を噛み潰したような顔で「俺が論文一本まとめるのにヒーヒー言ってるそばで、アイツは五本も六本の仕上げていくんだぞ。おまけに学会の査読はどれも一発OKだ。そんな奴が机を並べていてみろ、どんなにみじめな気持ちにさせられるか」
「………」
「俺は研究生活を捨て、日本を飛び出した。もともと旅が好きだったこともあってな。それで世界中をあてもなく放浪しているうちに、気がついたら傭兵学校に入っていた。そこを卒業してからは世界中の紛争地帯を転戦する日々さ。そうして今に至ってるってわけよ」
「はあー、イワのほうが俺よりスゴい人生じゃないか」
「いや、オマエのほうがスゴい」
「どうして?」
「俺、船なんか絶対に乗れない。船酔いするから」
ハハハとふたりのかすれた笑い声が響いた。
「しかし、イワが傭兵とはねぇ。なんでまた?」
「まあ、その、成り行きだ」
岩村は人差し指でこめかみをボリボリとかいた。
「それからどうしたい、その天才クンはよ」
「伊里江か……。考えてみればアイツも数奇な運命さ。我が筵潟研究室始まって以来、第三号の栄誉に輝いたんだからな」
「第三号?」
「第一号は久保田。そして第二号は俺」
「伊里江も研究室を出て行ったのか?」
岩村は下唇を突き出してみせる。
「そのとおり。あまりに突出した才能は、周囲に大きな軋轢(あつれき)を生む。温厚な筵潟センセイには到底かばいきれなかったようだ。奴はある日プイといなくなった。そうかと思ったら一ヶ月後、アメリカの某有名大学の教授として国際学会の檜舞台に現れやがった。俺はその頃もう傭兵学校にいたが、ネットニュースで見た奴の顔はアメリカ食が性に合ったみたいで、やたら血色がよかったぜ」
「そりゃあ失踪どころか、大栄転じゃないか」
岩村は「ケッ」と顔をしかめた。 |