エレベータは緩やかにスピードを落とすと、音もなく停止した。表示階数は五階。いよいよ敵の陣地に乗り込むのだ。
(わたしの家なのに)
扉が開いた。全身が粟立つ。
物陰から銃弾が飛んでくる──!。
そんな恐怖に駆られ、頭だけを覗かせて外の様子をうかがおうとするのを、かろうじて押しとどまった。
(防犯カメラが見てる。怪しまれる行動はできない)
萠黄は「起きて」と、床に延びている(ように見せかけている)久保田を揺り起こした。
緊張感が萠黄の全身を包み込んでいく。唯一の頼りはこの久保田だけだ。
萠黄の肩を借りて立ち上がった久保田は、ゆるゆると廊下に歩み出た。足取りは誰が見てもそれとわかるほどの千鳥足≠ナ、依然、酩酊状態の看板を掲げ続けている。
(敵の眼にもそう映りますように)
仄暗い電灯に照らされた共用廊下のどこにも、怪しい者の姿はなかった。
「もう一階、歩いて昇るんですな?」
久保田が萠黄の頭頂部にささやきかけた。
「直接、六階に着くのが怖かったんです」
「いや、それでいい」
萠黄は久保田の重い身体を全身で支えながら、廊下を左に折れ、階段部へと進路を取った。
鏡像のように正反対の間取り。知らない土地を逃げているあいだなら戸惑うことはなかったが、馴染み過ぎた場所だとそうはいかない。記憶と目に映ったものとが頭の中でせめぎあう。喧嘩する。
(わたしまで酔ってしまいそう)
ふたりは道路側に面した階段にたどりついた。
そこにも誰もいない。
「カメラはちょうど今、わたしたちの頭上にあります。階段の途中にある踊り場まではここのカメラ、その先は六階のカメラが捉えるようになっています」
「死角はないのかい?」
「踊り場の中央が少しだけ」
久保田は左右に身体を揺らしながら階段に足を掛ける。萠黄も遅れじと昇っていく。
踊り場で階段は百八十度に折り返している。そこは見晴らしがよく、空中に突き出した展望台の感があった。
「ここから玄関が見えるんです」
あん? とアゴを動かして久保田が反応する。
直線距離にして十数メートル。廊下の側壁の向こうに、我が家があった。月光を浴びた扉は堅く閉じられている。
「久保田さん、カメラの影になってもらえませんか?」
「おう」
久保田は立ち塞がるように、広い背中を六階に向けた。萠黄は間を置かず、バッグから携帯を取り出す。
(いたっ!)
立体映像は、六階に存在するただひとつの光点を示していた。それは萠黄の家の中にいた。
「敵は我が家の一番奥に潜んでいます」
久保田はわずかに頷いたが、
「ん? 文字が」
萠黄はビックリした。どうして久保田が自分のPAIの名を知ってるのか、と驚いたのだが、そうではなかった。
画面には、六階フロアの間取り図の脇に、小さな文字が現れていた。
『むんより。わたしたちはすぐ下まで来ています。必要があれば連絡して』
萠黄は小さく叫んで、踊り場の手すり壁に身を乗り出した。
道路脇の灌木のそばにライトバンは停まっていた。暗くて見えないが、むんも伊里江もそこにいる。そう思うと萠黄の胸に熱いものがこみ上げてきた。
(きっとむんが強引にエリーさんを説き伏せたんやろうな)
返信メールを打ちたかったが、ギドラに忠告されて以来、萠黄の携帯は居場所を探知されないよう、電波が届かないようにしてある。
「さ、前に進もうか」
こんなところでじっとしているのは十分に怪しい。萠黄は促されて久保田とともに階段を昇り始めた。
いよいよ六階だ。萠黄の足も自然と重くなる。
「お嬢さん──萠黄さん、君の──」
久保田の話しかける言葉が、ホテルの客に対するものから、兄が妹に向かって語りかけるような口調に変わっていた。萠黄にはそれがとても自然なことに思えた。
「君の家族構成は?」
「母とわたしだけです──でした。亡くなったのはついおとついです。父はずっと以前に出て行きました」
「………」
久保田は洟(はな)をすすりながら、くいっとアゴを空に向けた。
「飼い猫のウィルも……母もあの家で殺されたんです。わたしを狙って押し入った迷彩服の手にかかって」
萠黄の脳裏にあの日のことがまざまざと蘇る。
しかしそんな思念をパンパンッという音が遮った。久保田が自分の両頬を両手で叩いたのだ。そのまま力を込めて顔を両側から押している。目も鼻も口も縦に伸び、変な顔になっていた。
萠黄は吹き出さずにはいられなかった。
「アハハハハ」
「ハハハハハ」
久保田も笑う。そして萠黄の肩にポンと手を置くと、「さあ、行こうか」と言い、彼女の腕を引いた。
ふたりは防犯カメラの下を通過した。
久保田は敵の存在など気にしないかのように、ズンズン廊下を進んでいく。その姿は無防備そのものだ。
廊下はT字路にさしかかり、こっちと萠黄が久保田の腕を引っ張って順路を示した。
とうとうふたりは『光嶋』の表札のある扉の前に到着した。緊張と興奮で萠黄の頭は爆発寸然だ。
鍵はかかっているのか?
それとも開いているのか?
萠黄はポケットをまさぐって鍵を取り出そうとしたが、それより早く久保田は拳を振り上げると、ドンドンと扉を叩き始めた。
「おおーい、姉さーん。俺だぁー、開けてくれー」
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