Jamais Vu
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第十章
託されたもの
(4)

「久保田さん」
 萠黄は叫んだつもりだったが、言葉にはならず、出たのはかすれ声だった。
 全身の関節がまるで油の切れた自転車のようだ。ギシギシとイヤな音が鳴り、歩いているだけなのに思うように動いてくれない。しがみついた久保田の太い腕にただ引きずられていくだけだ。
「お嬢さん、黙って見ていなさいよ」
 久保田がふいに小声で耳打ちした。
(へ? 何?)
 あわてて問い返そうとしたが、
「ああ〜あ〜」
 突然、久保田は奇声を上げて、膝から床に崩れ落ちた。
 萠黄の顔面が引きつった。血の気が引いていくのが自分でも判った。
(撃たれた──!?)
 久保田は肩口から床の上に転がると、そのまま管理人室のガラス戸に背中からぶつかっていった。
「俺は酔ってないぞ。断じて酔ったりしてましぇーん」
 呂律(ろれつ)がまわっていない。久保田はいつ酒を飲んだ? そんな不審感を抱かせたが、それも一瞬だった。
(演技してる!)
 すると久保田は欠伸をかみ殺しながら、萠黄にウインクしてみせた。
「おおーい。管理人さん、いるかーい」
 久保田はもたれているガラス戸を拳でドンドンと叩いた。萠黄には演技と判っていても、冷や汗の出る状況であることはまちがいない。
「管理人さーん。……なんだ、いないんじゃないかよー。職務怠慢だぞー」
 久保田は尻餅をついたまま、ふてくされた顔つきで管理人室を覗き込む。
 もう萠黄にも彼の意図は伝わっていた。中に敵が隠れていないか、それとなく──荒技だが──調べてやろうというのが最初からの魂胆だったのだ。
 久保田は正面を向き、にやっと笑みを浮かべた。どうやら管理人室は無人らしい。萠黄に向かって、起こしてくれよーと手を差し出す。
「父ちゃん、もうグロッキーだよ──ってコレ死語かいねー?」
(さっきは兄妹なんて言ってたくせに、わたしに娘を演じさせるつもり?)
 萠黄は両手を差し出し、久保田の巨体を引きずり起こした。久保田はどっこいしょと勢いをつけて立ち上がった。
 いつの間にか萠黄の緊張は解けていた。管理人室には誰もいないと判明したこともあるが、それ以上に久保田の酔ったふりが堂に入っていて、思わずあっけにとられたことが大きいだろう。
「さあ、父ちゃんをエレベータまで連れていってくれ」
 萠黄は久保田を背負った姿勢で前進し、エレベータの扉の前に来ると壁のボタンを押した。
 エレベータは二機あり、一機は一階で止まっていた。
 扉はすぐに開いた。萠黄は熊のように覆い被さる久保田と歩調を合わせてエレベータに乗り込んだ。
 久保田は手足を放り出すと、今度は床の上に大の字になった。あくまで酔いつぶれた親父を体現している。もはや演技と判っているので、萠黄はあわてずに『閉』ボタンを押し、腕を腰にあてた格好で久保田を見おろした。親父の酒癖に困る子供の図である。
(──本当のお父さんとこんなふうに接したことは一度もなかったな)
 萠黄の心にふっと影がよぎったが、打ち消すように首を振ると、久保田のそばに両膝を折ってかがみ込んだ。
「天井の端にある出っぱり、あれがカメラだね?」
 久保田は目を閉じたまま、虫の鳴くような声で問いかけた。
(えっ?)
「眼を上げない」
 久保田が早口で注意した。萠黄はピクッとアゴを動かしただけで踏みとどまった。
「そ、そうです。でもマイクはないからしゃべっても大丈夫ですよ」
「あ、そう」
 ふーっ。久保田の口から息が漏れた。
 天井の蛍光灯がふたりの顔に陰影を作っている。
 この距離で見る久保田はかなり無骨な顔をしていた。小さな眼と隆起した頬は萠黄に木彫りの彫刻を連想させた。漁師のイメージにぴったりと言いたいところだが、細い眉はどこか繊細さを感じさせる。
 久保田はこのマンションにいるあいだ、酔った親父を演じ続けるつもりらしい。カメラが四方から見ている状況だし、おっかなびっくりで潜入するよりも、そのほうが動きやすいと判断したのだ。
 そこまで腹をくくってくれているのなら萠黄も合わせるしかない。素人の演技でもロボットのように緊張でギクシャクした動きよりはマシだろう。
 萠黄は閉じた扉を振り返り、階数ボタンに手を伸ばした。しかし『6』を押しかけた指が一瞬ためらった後、『5』を押した。
「おんや、六階じゃなかったのかい?」
 久保田がわざとらしく間延びした声で訊ねた。
「失敗失敗。まちがえちった」
 萠黄は舌をぺろっと出してみせた。わざとらしさは互角だ。



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