Jamais Vu
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第十章
託されたもの
(3)

 アホなこと言わんとき、とむんは叱りつけた。
「無茶な話やって、アンタ自分で判ってるくせに」
「そうやけど……それでもやっぱり取りに行きたい。だって」萠黄は伊里江を見た。伊里江は画面の上を微妙に動く光の軌跡をマウスで追っている。迷彩服の疑いが濃厚な光点を抽出しようと躍起になっているのだ。
「──わたしのパソコンには、これまで何年も蓄えてきた自前のソフトウェアがいっぱいあるんよ」
「知ってるって」むんが叱り口調を保ったまま言う。
「ううん、本当には知らんと思う。わたしとエリーさんは互いに知り合ってからずっと鎬を削り合ってきた。少なくともエリーさんと張り合えるくらいの自信はあるつもり。なのに──今のわたしは何も持ってへん。これじゃ刀を持たへん侍、ハサミを持たへん床屋、釣り竿を持たへん漁師よ」
 タオルを巻いた久保田の後頭部がピクッと動いた。
「役立たずのまま、これ以上時間を無駄にしたくない。家のパソコンを持ち出せたら、せめてエリーさんのお手伝いくらいはできる。そやから、わたしを行かせて、ね?」
 むんは激しく髪を揺らし、車の天井を振り仰いだかと思うと、
「萠黄が行くなら、わたしも──」
「アカン!」躊躇なく萠黄は遮った。「今度ばかしはついて来てほしくない。敵は確実にいるんやし、むんは面も割れてるし──」
 ひ弱なヴァーチャルだから……とは言えない。
「ほなエリーさんに、エリーさんについて行ってもろたらええんよ。同じリアルやし、一度は迷彩服を撃退してるやん」
 むんの声は悲痛な色を帯びていた。萠黄のことを心底心配しているのだ。
 しかし伊里江は冷たく言い放った。
「……萠黄さんと私がふたりとも敵に捕えられたらどうします? 世界を救う望みは消えてしまうんですよ。行くというなら止めはしませんが、ここは萠黄さんひとりで行ってもらうしかありません」
「ひどい! アンタそれでもオトコ!?」
 むんのいら立ちが怒りに転化しようとした、その時、
「俺がお供しましょうか?」
 運転席からおどけたような声が飛んできた。
「久保田さん」
「口出しして申し訳ない。いえ、話はまったく見えないんですが、そちらの萠黄さんがこれから帰ろうとしてる家には物騒な連中が待ち構えてるんだって? それぐらいは判ったような」
 久保田はフロントシートの間から身を乗り出すと、
「──ここんとこお客もなくてホテルの仕事も暇だったから、若いのとテレビばっかり見てたんだ。どの局も報道番組だらけ、キナ臭いニュースだらけだっだな。解説者も「理解できん」の連発だ。見てるこっちはさらに判らない。
 ただ、おとつい辺りにウイルスだっけ? おかしな病気が日本中で猛威を奮い出したって噂が流れてからだよ、世間が物騒になったのは。都心に現れた大将がどーとか、長野防衛軍がどーとか。いったい世の中はどうなっちまったのかねぇ。
 ──俺は生まれも育ちも東京の下町で両親はもういない。近江八幡で俺を待ってるのは妹夫婦だ。気丈な妹が少々頼りない旦那、それにまだ小さい息子といっしょに細々と暮らしてる。ところが近所で大きな事故があったらしく、人がたくさん消えたとかで妹がえらく怖がってる。だから行っておまえらを守ってやるって、大見得を切っちゃってね。
 ──俺のオツムはあんまし利口じゃないけど、お嬢さんがたの話を聞いてると、世間の不穏な空気に関係してるような気がした。そうじゃありませんかい?」
 萠黄は頷いた。
「だったら江戸っ子として捨てちゃおけません。俺がついてって差し上げますよ」
 そこまで言うと、久保田はエンジンを切り、止める間もなくドアを開けて外に出た。
 萠黄も追いかけて車外に飛び出したが、久保田は口笛を吹きながら、どんどん道路を下っていく。萠黄は後を追うしかなかった。

 久保田は暗い夜道を、大股でゆっくりと歩いていく。巨体をぴっちりしたポロシャツとジーンズに包んだ姿は、どことなくユーモラスでもある。
 車を離れる際に、萠黄は自分の携帯電話に伊里江の携帯追跡プログラムを転送してもらったおいた。
「いい月夜だねえ」
 月──ヴァーチャル・ムーン。
 萠黄は久保田の言葉につられて空を見上げ、月光に照らされた町並みを見やった。こうして眺めている限り、世の中は平和そのものなのだが。
「お嬢さんのマンションはどれですかい?」
 萠黄はあれですと指さした。
 距離にして五十メートル。
 萠黄は右手の中の携帯をオンさせた。ぼわんとホログラフィの画面が浮き出した。まだ遠すぎるらしく、蠢く蛍の画像は先ほどとあまり変わらない。
 しだいに緊張が高まってきた。
 ふたりはマンションの下に到達した。
 建物は月に照らされた壁面を舗道側に向けていた。萠黄たちは、地下駐車場へと続くスロープを前にして、自宅のある六階を仰ぎ見た。光嶋家の扉は共用廊下の外壁がじゃまして確認できない。ただその辺りの壁面にこびりついた黒い煤は、二日前の襲撃をイヤでも思い出させた。
 明かりの漏れる窓はほとんどなく、マンションもその周囲も森閑としている。
 久保田は尻ポケットに突っ込んでいた別のタオルを引き出し、「ほれ」と萠黄に差し出した。萠黄は久保田の意図が読めず、首を傾げた。
「お嬢さん、アンタさっき、面が割れてるのどうのと言わなかったっけ? これを俺みたいに頭に巻いてごらん。見た目が変わるよ」
(本当だろうか?)
 萠黄は疑問に思いつつ、受け取ったタオルを巻いてみた。
「あと、Tシャツの袖口もこうまくり上げて──そうそう、いい感じだ。漁師の息子が一丁上がりだね」
(うれしくない)
「俺と並んだら、兄弟が遊び疲れて帰ってきたって風に見えるんじゃないかな。ハハハハハ」
(どうせわたしはチビで、女っぽくないですよ!)
 萠黄はすねた顔をしてみせたが、内心はありがたかった。正面から敵の中に乗り込むというのに、変装するぐらいの考えが浮かばなかった自分は、こんなシチュエーションには不向きなのだろう。
(でもタオルを巻いたぐらいで変装といえる?)
「さあ、肩の力を抜いて、さりげなく参りましょう」
「はい」
 ふたりはついにエントランスの正面までやってきた。萠黄はポケットから鍵を取り出し、横壁のインターホン下にある鍵穴に差し込み、回転させた。自動ドアはグイーンという音とともに開き、ふたりはライトに明るく照らされたエントランスに足を踏み入れた。
 緊張がいやが上にも高まっていく。
 住民用の戸別ポストの前を過ぎると、管理人室がある。そこにはマンション全体の監視カメラをチェックするモニターがあるはず。敵が隠れているとすれば、まず最初に思い当たるのがこの部屋だ。
 萠黄はバッグに手を入れ、伊里江から預かった銃の感触を確かめた。一度は揣摩が奪い取り、加太で再び伊里江の手に返された。萠黄には扱う自信はまったくなかったが、お守りの代わりだと渡されたのだ。
 管理人室の窓が近づいてくる。
 一瞬、何かが動いたような気がして、萠黄は身構えた。



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