Jamais Vu
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第十章
託されたもの
(2)

「すいません、もう少し待ってもらえますか?」
「なあに、どうせ俺の行き先はただの実家だから、何時になったってかまやしないよ」
 久保田は気楽そうに言うと、頭に巻いたタオルを解き、窓の外でパッパッと払う仕草をした。
 その時、ポーンと彼の腕時計が時報を鳴らした。午後十時になった。
 萠黄たちの乗るライトバンは現在、舗道を少し入った行き止まりに停車していた。道はずっと向こうからやってくると、すぐそこで右にカーブし、二日前パトカーに乗った萠黄が襲われた交差点へとつながっている。
 あれはまだ一昨日のことなのだ。萠黄には何ヶ月も前のことのように思われた。
 ライトバンの左には、舗道に沿って近鉄線のレールが延びている。もっとも道路とのあいだにはコンクリートの壁があるため、線路自体は見えない。
 萠黄のマンションは、この道をまっすぐ下っていったところにある。車なら一分の距離。すぐそこだ。
「本当に誰かが待ち伏せてたりするんやろか」
 むんが闇を透かして前方を見つめる。道路際に植わっている樹木が邪魔で、マンションの明かりは見えない。
 伊里江はパソコンのキーを叩きながら、
「……敵も必死ですからね。あらゆる可能性を想定してリアルを追跡しているはず。私なら萠黄さんが生きて自宅にたどり着くことも考慮しますよ」
 萠黄は身震いを抑えるようとするように、両手で自分の肩をつかんだ。
「判ったから」むんは伊里江の話にストップをかけ、「エリーさんの仕事はまだ終わらへんの?」
「……あと一、二分ください」
 伊里江はディスプレイをにらみ、キーを叩き続ける。
 この袋小路に車を停めるよう指示したのは伊里江なのだ。『……十五分ください。マンションのセキュリティに侵入してみます』そう言ってから一度も顔を上げない。
(おかげで清香さんとお話しする時間があったんやけど)
 萠黄は清香との電話を思い出した。
 清香は最後に、自分はいま岐阜市内にいるのだが、どちらに向かえばいいだろうかと質問してきた。
 萠黄はあらかじめむんらと打ち合わせていたとおり、『近江八幡を目指してきてほしい』と告げた。危険すぎて、大津に来いとはとても言えない。思い浮かんだのが久保田の最終目的地だった。
『おじさまはもう寝たから、朝になったら伝えるわ。またお電話ちょうだいね』
 通話時間が長びくと、それだけ敵に発信地を割り出される危険性が高まる。まだまだ話し足りなかったが、萠黄は泣く泣く通話を切った。

「……完了しました。見てください」
 伊里江はパソコン画面を萠黄たちに向けた。
「うわっ、ほんまや、ウチのマンション!」
 興奮した萌黄は、思わず画面を抱え込んだ。
 縦横五×五=二十五のマス目に仕切られた画面で、ひとつひとつにマンションの廊下やロビー、エレベータなどの空間が映っている。すべてマンションのセキュリティ対策として数年前に設置されたカメラの映像である。
 当時はプライバシーがどうのと自治会でも賛成派と反対派がもめたが、ここ数年、凶悪犯罪が連続していたため、反対派が押し切られる格好で設置されたのだ。
 まさかそれがこんなところで役に立ってくれるとは。「伊里江さんって怖い人やね。こんなことまでやってしまうなんて」
「……大したことではありません」
 伊里江にはむんの皮肉は通じなかった。
 萠黄はズラリと並んだマス目の中に、墨で塗り潰したような黒いマス目があるのに気がついた。キャプションを見ると『6F』と書いてある。萠黄の家は六階にある。
他のマス目に目を転じても、やはり六階の映像だけが何も映っていなかった。
「なんで?」
 むんも伊里江も顔を寄せる。
「……ブラックアウトですか」
「カメラが壊された?」
 萠黄はがっくりと肩を落とした。
「やっぱりおるんやね、敵さんが……。そんなところへノコノコ帰宅しようなんて、無茶な話かなあ」
「……あきらめるのは早すぎます。私が準備したのは、これだけではありません」
 伊里江はマウスを動かし、別の画面を映し出した。濃紺のバックに、白い線で描かれた図形がいくつも交錯している。
「……これはマンションの上面図、すなわち真上から見たところです。ところどころに動いている光点は、オン状態にある携帯です」
 萌黄は、伊里江の隠れ家で見た立体地図を思い出した。
 この図は、携帯電波の位置情報をハッキングし、立体地図ソフトで読み込んで作ったのだろう。
「蛍みたいなのがみんな携帯電話なんやね。二十個はあるよ」
「……ただ残念なことに、どの光が何階なのかまでは突き止められません。せめて二、三十メートルぐらいまで接近すれば可能ですが」
 喜びは束の間だった。萌黄はもう一度肩を落とした。
「結局は近くまで行かんと敵の位置はつかめないってことやね」
「……これでせいいっぱいです」
「ううん、よくやってくれはったわ。感謝してます」萌黄は無理に笑顔を作ると、「わたし、エリーさんのパソコンを担いで、ひとりでマンションに戻ってみるわ」



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