Jamais Vu
-132-

第十章
託されたもの
(1)

《プルルルル、プルルルル》
 呼び出し音が鳴り続けている。
 携帯を耳にあてたむんのひたいには、うっすらと汗がにじんでいる。だが反対側から携帯に耳を押しつけている萠黄は全身に冷や汗が流れていた。
 ──ムチャムチャ、ドキドキする。
 相手はコンサートにも行ったことのあるアルピスタ(アルパ奏者)の影松清香。人気上昇中のミュージシャンである。
 むんの携帯は伊里江のパソコンに接続されている。通話はパソコンを通すことで、高度な暗号がかかるという。そのため、通話記録はどこにも残らず、自分と相手のどちらの居場所も特定されずに済むと伊里江は言った。
 影松清香は萠黄同様、この世界に送り込まれた仲間のひとりである。それを知った時から萠黄は彼女と話したいと思っていた。じかに会いたいと思っていた。
 ──ミーハー根性は否定でけへんけど……。
 そう思ったりして、あれこれウジウジ悩んでいたが、SS広告で仲間を集める用意ができつつある現在、清香に呼びかけるには絶好のタイミングではなかろうか。
「そやね。あの人やったら信用できそうやし」
 むんが同意してくれたので、時刻は午後九時を回っていたが、すぐかけてみようということになった。
 とは言え向こうはこちらをまったく知らない。そんな相手と萠黄がいきなり話せるわけがない。いつものように応対するのはむんの役目となった。
《プルルルル、プルルルル、プチッ──もしもし?》
 ──わ、出た!
 萠黄の身体から、さらに倍の量の汗があふれ出た。
「もしもし、影松清香さんでいらっしゃいますか?」
《そうですが……》
 ──独特のハイトーンヴォイス。まちがいない!
「突然お電話してすみません。わたくし、舞風むんと申します。影松さんの番号は揣摩太郎さんから教えていただきました」
《揣摩さん!?》
 清香は驚きの声を上げた。むんはマイペースで話を続ける。
「じつは揣摩さんの口から、あなたが困っておられるとお聞きしました。影松さんは揣摩さんに『世界の左と右が入れ替わった』とおっしゃったそうですね?」
《え、ええ》
「じつは今、すぐそばにわたしの友人がいるんですが、彼女も四日前の朝、突然左右が逆転する世界に放り込まれたんです」
《えっ》
 通話はテレビ電話ではない。しかし顔は見えなくても、逐一判りやすい反応を返してくれるので、電話相手としてこんなに話しやすい人もいない。
 萠黄は清香にますます好感を持った。
「友人と代わりますので」そう言って、むんはいきなり携帯を萠黄に手渡した。
「あわわ」
 萠黄は心の準備もできないまま、送話口を自分の口許に持っていった。
《もしもし?》
「あ、は、初めまして、光嶋萠黄といいます。わたし、その──影松さんのファンです! コンサートも行きました! 楽曲も全部ダウンロードしました! ふつつか者ですがどうぞよろしく!」
《ぷぷっ、こちらこそよろしく》
 清香は笑い声を立て、ようやく口調がソフトな響きに変わった。
《光嶋さんは学生さん?》
「はい、大学一年生です。芸術学部です。出席率が悪くて留年しそうです」
 萠黄は一生懸命に答えている。が、受話器の向こうではクククと笑いをこらえているらしい。
《光嶋さんと舞風さんはお友達なの?》
「ふぁい、できた時からの親友です」
 むんが腹をかかえて足をじたばたさせている。
《それで、あなたはどこで揣摩さんからわたしのことを?》
 萠黄はハッとした。そうなのだ、本題を忘れてはいけないのだ。
「揣摩さんは──数日前、わたしの通う大学に入学されました。ちょうど口を利く機会がありまして、わたしは自分の住む世界が、ある時を境に左右が全部反対になった話をしたんです。そうしたら揣摩さんが影松さんとお話しされた時、同じことで悩んでいるらしいと話されたんです」
《そうだったの──》
 萠黄は話を端折ったが、清香は納得したようだった。
「あのー、影松さんも左と右が逆になったというのは、本当のことですか?」
 萠黄はまず大事な点を確かめるべく、最重要の質問を投げかけた。
《ええ、本当です。四日前の早朝、突然に》
「わたしとおんなじや──」
《あなたも?》
「はい、ええ、寝てる時でした」
《そう──》
「影松さん」萠黄はシートの上で居住まいと正すと「お電話した理由はそれなんです。わたしたちはこの鏡の中のような世界の秘密を知っているんです。わたしたちのような境遇にいる仲間は他にもいます。いまその仲間に呼びかけて、集まってもらってるところです。だから影松さんにもぜひ来てほしい、そう思っているんですけど──」
《判ったわ、参ります》
 清香は即答した。

 萠黄と影松清香のファーストコンタクトは終わった。落ち合う場所はいずれ連絡するということで萠黄は電話を切った。
 ふーっと肩で息をついた萠黄に、運転席の久保田が声をかけた。妙にニコニコしているのは、電話のやりとりを聞いた余韻が残っているからだろう。
「お嬢さん、そろそろアンタのご自宅に向かってもいいかい?」



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