そこに写っていたのは、忘れもしない、むんのアパートで出会った青年──むんの恋人だった。
「そう、耕平さんよ。彼は北海道事件の遺族会幹部の中でも、若手急先鋒という存在やった。とくに先週、永田町で総理をつかまえ、詰め寄ったことは大きく報道されて世間の注目を浴びてしもて」
萌黄は知らなかった。
(時事問題には疎いからなあ。むんが関係してるっていうのに)
「──彼は自分のしたことがマスコミに取り上げられてスゴく得意がっていたけれど、遺族会の中では賛否両論やったわ。わたしは彼の直情的な部分も、場合によっては判りやすくていいかなと思ってたけど……そんな話をしてる場合と違うわね」
むんは自分でつっこむと、携帯を伊里江に差し出した。
「……いいんですか?」
「いい。でも彼──塚本耕平さんが亡くなったことが世に知られてないかどうか、それだけ調べて」
伊里江は了解と言うとパソコンに向かい、マスコミ各社のニュースを、地方版も合わせてざっと検索した。
「……ありませんね。サーバのほうにも見当たらない。警察にも侵入してみましたが、そちらにも名前はなかった。彼の死亡は確認されていないようです」
むんは目を閉じて一呼吸した。そして伊里江の横に膝をつき、携帯を机の上に置いた。伊里江は無言でパソコンからコネクタを引き出すと携帯に接続した。
数分後、耕平の遺影がSS広告のメッセージに並んで画面表示された。耕平は、やや緊張した面持ちで正面を向き、唇は何かを告げるかのように開きかけている。
(プロポーズする直前の写真やろか)
写真の下には「遺族会幹部 塚本耕平」と文字を添えた。
アップロードはすぐに完了し、画面から耕平氏の顔が消える。
「……午後三時」
伊里江は顔を上げて、むんと萌黄を交互に見た。
「……あのう、お腹が空きませんか? できれば何か食べたいのですが」
フロントに電話すると、女将さんが直々にやってきた。中途半端な時間で申し訳ないが食事はできるだろうかと訊ねると、
「どうぞどうぞ、たくさん召し上がってください。料理長が腕によりをかけますよって」
やがて部屋に運ばれてきた食事に萌黄もむんも目を見張った。刺身、伊勢海老、かに、てっちり。さらに茶碗蒸に吸物、そして果物まで山のように盛られている。
「ご心配要りません。追加料金などいただきませんよって、遠慮のう好きなだけおかわりしてちょうだいな」
愛想のいい女将はニコニコ顔で、自ら給仕を務めるべく部屋に腰を据えた。
揣摩は食欲がないと言って隣室から出てこなかった。
伊里江はすでに猛烈な勢いで食べ始めていた。女将はそんな伊里江を眺めながら、
「食べっぷりのいい男って、すてきですねぇ」
などと微笑んでいる。
「女将さん」
お吸い物を持ったまま、むんが話しかけた。
「なんでしょう」
「他のお客さんの姿を見かけないんですけど、今はシーズンオフなんですか?」
「いえいえ、そんなことないんですけど、ほら、政府からのお達しがあったでしょう。あのせいで予約客も全部キャンセル。もっとも律儀にキャンセルの電話をくれた人はほとんどいませんでしたけどね」
むんと萌黄は顔を見合わせた。思ったとおり、客は自分たちだけだったのだ。
「ぶっちゃけますとね。お客さんが来てくれないせいで用意してた食材が余ってしまいましてね。それでこちらのみなさんに振る舞わせてもらったわけなんですよ。
内輪の話ですけど、このホテルも明日からお休みすることになりました。いえね、お客さんがないだけやのうて、従業員たちが浮き足立ってもうてね。しょうがないから全員、実家に帰りなはれって、さっき言うたところなんですよ」
なるほどと萌黄は思った。
世間は今どこも同じような状況のはずだ。身体が砂になってしまうなんてことが目の前で起きれば(実際に目の前で見た人は少なくないに違いない)、世界の終わりが来たと恐怖に駆られることだろう。もはや仕事どころではない。
彼らは政府の「あと十日」に一縷(いちる)の望みを託している。その日までじっとしていれば何とかなると思い込んでいる。世の中が比較的静かなことがそれを象徴している。
もし世情が騒然としていたら、自分たちの逃亡はここまでスムーズにはいかなかったろう……。
「──電車が止まってるんで、帰省するのも一苦労なの。板前さんなんか大きな車を持ってて、途中で何人か降ろしながら帰る予定だから、自分の故郷の近江八幡にたどり着くのはいつになるやら」
萌黄は指にはさんでいたカニを膝の上に落とした。
「──お、近江八幡? それって滋賀県ですよね」
萌黄はむんを振り返った。そして女将のほうに顔を戻すと、
「私たちもその車に乗せてもらえませんか?」 |