鏡像宇宙が誕生して四日目。
まだ四日しか経過していないことに萠黄は驚いていた。
とくに、自宅を後にしてからの三日間は、遭遇する何もかもが非日常の連続で、未だに夢心地の感が否めない。
(でも、これこそが現実──リアルなんや)
午前八時半。
加太(かだ)は静かな港町だった。
上陸にこの港を選んだ理由は、遠目にも雑然とした雰囲気を漂わせていたからだ。目立つ外観をした探査船が入港するには、漁船が舳先を並べる雑多な風景は絶好の場所に思えた。
しかし港に人影はほとんどなかった。防波堤には釣り人の姿もない。
探査船は好奇の目に晒されることもなく、わずか数時間の航海を終えた。
陸に上がった萠黄とむんは半覚半醒の伊里江を連れ、柳瀬は緊張の糸が完全に切れた揣摩をおぶって、そそくさと港を離れた。探査船は自動操縦によって、海の底に隠された。
萠黄たちはひとまず目と鼻の先にあった観光旅館になだれ込んだ。伊里江たちを休ませる必要があったし、今後の方針も決めていなかったので、とにかく時間が必要だったのだ。
高い宿泊料は、柳瀬の「私にまかせて」にまかせた。
伊里江は正午を過ぎた頃に目を覚ました。
「……すみません。貴重な時間を消費してしまって」
「ええんよ。夕べは一睡もしてないんでしょ?」
萠黄がいたわりの言葉をかけたが、
「……お気遣いは無用です。早速作戦を立てましょう」
旅館は鉄筋四階建てのかなり年季の入った建物で、部屋は畳敷きの和風造りになっている。作戦会議は畳の上にデンと置かれた黒檀の座敷机を囲んでスタートした。柳瀬と揣摩はふすまを隔てた隣りの部屋で休養している。
伊里江は自分のリュックを裏返してパソコン仕様に切り換えた。スイッチを入れると、波打った布地が記憶された形状のとおりフラットに戻り、十七インチディスプレイの姿を整えた。
「……最新データをチェックします──おや?」
「どうかした?」
問いかけた萠黄に、伊里江は凍りついたような顔を向けた。
「……兄からメールが届いています。萠黄さん宛に」
「わたしに?」
伊里江はそのメールをプレビューすると、萠黄に示した。
《本メールが目に触れたとすれば、無事逃げおおせたのだろうな。そのがんばりに敬意を表しよう。と同時に私は萠黄さんとの約束を守らねばならなくなったわけだ。いいだろう、教えてあげよう。私の潜伏している場所は、滋賀の大津(おおつ)だ。来るなら覚悟して来たまえ》
「大津──琵琶湖(びわこ)のほとりやん!」
萠黄が小さく叫んだ。するとむんが、
「待ってよ。わたしには文字が裏向きで読まれへん」
「あっ──エリーさん、このパソコンはどうしてリアルに読める字を表示できるの?」
「……こちらの世界に来て最初の作業でした。文字ジェネレータに細工を施し、キーボードの配置を換えただけですよ」
話しながら、画面をキャプチャすると、画像処理ソフトで左右を反転させ、むんの前に差し出した。時間は十秒とかからなかった。
その手際の良さに感嘆のうなり声を上げながらも、
「大津ってゆーても広いよ」
と意見を述べるのを忘れないむんだった。
「……あっ、見てください。画像が添付されています」
アイコンがダブルクリックされると、ディスプレイに葉書ぐらいの縦長の画像が表示された。写真だった。
「こ──これって、お兄さん?」
むんの問いに、伊里江は眉を曇らせながら頷いた。
「……そうです。不肖の我が兄です」
写真のなかの伊里江真佐吉は「古めかしい名前」という揣摩の評に反して、意外にもシブい男だった。年齢は三十代半ばか。百八十センチは優にありそうだ。
天然パーマの長髪を獅子のようになびかせ、若干痩けた頬、切れ長の目、細身の身体をジージャンに包んだ姿は、昭和の時代に流行った刑事物ドラマの主人公のようだ。
斜に構えた姿勢。顎をやや上向けた顔には、風貌とは不釣り合いなほど柔和な笑顔をたたえている。右手にはサングラスを持っている。ふだんは掛けることが多いのかもしれない。
総じて、写真の真佐吉は萠黄の予想を大いに裏切っていた。せめて醜悪な容貌をしてくれていたら、戦闘意欲を煽ることができたのに、その目論見は泡となって消えてしまった。
「撮影場所はどこかな。後ろに噴水が写ってるけど」
「知ってる!」萠黄が叫んだ「花噴水。琵琶湖や!」
彼女は父方の親戚が石山寺(いしやまでら)におり、琵琶湖には何度も遊びに行った経験がある。
「……そうですか、やはり大津に」
「それにしても」むんがディスプレイを指で突ついた。「ホンマにこれがマッド・サイエンティストのお兄さん? まるで観光ポスターやんか。ちょっとイキがってはるんとちゃう?」
萠黄も同感だった。まるでからかわれているようで、皮肉のひとつも言いたくなる。
「……CGのニセモノと言いたいところですが──」
弟は肩を落とすと、画面から兄の画像を消した。 |