Jamais Vu
-120-

隠れ家の謎
(20)

 倒れかかった伊里江の肩越しに、異形のマスクをかぶった人間の姿が見えた。その手に銃らしきものを構えている。
 萠黄は自分の顔が恐怖に歪むのが判った。
 探査船はいまだ進水の途中である。すでにシャボン玉は消え、海水は腰上に達している。攻撃に対して、完全に無防備な状態だ。
 異形の男は間合いを詰めるべく、こちらに向かって進撃を開始した。しかし白煙で見えない床の何かにつまずいたらしく、オウと叫んで激しく転けた。洋画のようにカッコよくはいかないものだ。
 いや、それどころではない。
 伊里江は腕をまわして、背中に刺さった矢をつかむと、
「……派手な空爆を繰り返しておきながら、いまさら麻酔銃とは──」
 気合いとともに一気に引き抜いた。すると刺さっていたTシャツの破れ目から大量の血が噴き出し、萠黄とむんを驚かせた。
 伊里江は傷口に当てた手を広げてみせた。意外にも赤味は少ない。
「……麻酔薬を吐き出したのです。少しは体内に残ったようですが……ダメですね、リアルも不意打ちを食らうと怪我をしてしまうらしい。萠黄さん、あとはまかせました」
(えーーーーーーっ)
 すでに水面は胸元に迫っている。アクアラングもなしにこのまま海に出て行ったら、ほとんど息はもつまい。
 むんが早口にまくしたてた。
「こうなったら海に出るまで探査船にくっついといて、外へ出たらすぐ手を離して浮上するんよ。島の海岸べりやったら、どこなと隠れるところはあるはず」
「……いけません!」苦しい息で伊里江がむんを見据えた。「……一刻も早く、島を離れる必要があります。さもないと──」
 バシュッ、バシュッ、と立て続けに破裂音が起こり、伊里江の身体が二度はずんだ。
「エリーさん!」
「……大丈夫です。警戒していれば問題ありません」
 水面をダーツの矢が流れていった。伊里江はふたりの盾となって矢を跳ね返したのだ。しかめっ面を見せた伊里江の頬に内出血のような痣(あざ)ができていた。
「……さあ萠黄さん、最後のチャンスです。気持ちを集中して、空気の球を作るんです!」
 萠黄は追いつめられた。
 わらわらと迫り来る米兵たち。
 彼女の首筋にまで上昇した海水面。
 探査船を飲み込まんと、大きな口を開いて待ち構える外海。
 萠黄は右手の人差し指を目の高さに持ち上げた。自信はない。ないけれどやるしかない。集中するんや!
 彼女は頭の中に空気の塊を思い描いた。
 形は三人を包み込めるよう、高さ二メートルの縦に長い楕円体がいい。水圧ってどのくらい? 耐えられるように玉子のカラみたいに硬くする? 凍らせるとか……そこまでは無理か。それなら滝のように空気を流して、エアーカーテンに仕立て上げるとか……。
 ふと気づくと、彼女のまわりから水が引いていた。
 シャボン玉は萠黄の人差し指を中心に、徐々に大きくなっていく。
(うわーっ、できてもたぁ〜)
 萠黄は、歓喜と戸惑いの入り乱れた気分で、海水と空気の境目を驚異の目で観察した。
 すでにむんと伊里江の身体は、萠黄が頭に描いたとおり、すっぽりとシャボン玉のなかに収まっている。さらに驚いたことには、シャボンの界面が小刻みに震えている。
 カンテラの光を受けて、シャボンに影を落とす米兵たちが水際に並び、こちらを眺めている。マスクを外した顔は一様に驚愕の表情を浮かべている。
 ひとりが銃を構え、銃弾を数発ばかり発射したが、すべて振動するシャボンの前に、あらぬ方向へとはじき飛ばされた。
 ゴボッ。探査船はついに水面下に没した。尾部に三人を包む空気の球をくっつけた姿は、子クジラというよりも、卵を背負ったカエルのようだった。
 探査船は短いトンネルをくぐり、やがて外海に出ると速力を上げた。
 三人を取り囲むシャボン玉は、見事なまでにその効力を示してみせた。萠黄とむんは周囲に広がる光景に感動し、同時に畏怖の念を抱いた。
 頭上高くにきらめく光の束はもちろん太陽で、足下に目を転じると、底の見えない海が延々と続いている。
 先ほどまで見えていた島の海底部も紺碧の海流の彼方へと去った。時折わきをかすめる魚影以外に、萠黄たちが目にとめるものは何もなかった。
「スゴいねー。こんな体験、もう一生ないやろなぁ」
 むんがため息をつくと、
「宇宙飛行士にでもなった気がするね」
と萠黄も、全天球型の水族館に圧倒されていた。
 とはいえ、萠黄は隣りの伊里江の容態が気がかりだった。口では大丈夫と言っても、顔は恐ろしいほど蒼白で、把手につかまっているのもやっとという感じだ。
 萠黄は片手で伊里江のベルトをつかんでいた。同時に空気のシャボン玉を維持しなければならず、気持ちが途切れないよう、集中力を持続させるのに骨が折れた。
「……空気が、汚れてきましたね」
 伊里江が口を開いた。
「まだまだ」萠黄は笑ってみせた。
 その時、伊里江のリュックがピーッと信号音を鳴らした。
「……来た!」彼は叫ぶと「ふたりとも、しっかり船につかまっていてください!」



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