Jamais Vu
-116-

隠れ家の謎
(16)

「リアル耳?」
 萠黄がおうむ返しに訊ねると、ダブル伊里江は揃って首を縦に振った。
「……今朝この部屋に入ってきた時、萠黄さんはこう言いましたよね、話し声が聞こえた、と」
「うん」
「……でも、そんなことはあり得ないんです。なぜなら地下室はどれも扉を閉じてしまうと、決して外に音が漏れない仕組みになっているんですよ」
「それじゃ、わたしの聞いたのは空耳?」
「……違います。じっさい私たちはこの部屋で話をしていたし、今も、ほらすぐこの上まで米兵たちはやってきています」
 リアル伊里江の指さす立体映像では、まさに研究所の真上にある建物のそばまで、米兵が接近しつつあることを示していた。
「……上手く説明できませんが、おそらく鏡像世界にいるリアルは、五感の能力が飛躍的に高まるのかもしれません」
「五感? 視覚とか聴覚とか?」
「……ええ」
「でも、今は全然聞こえへんけど」
「……想像ですが、耳なら耳に集中することで、能力が研ぎ澄まされるのではないかと──」
「コラッ!」むんが目を吊り上げてふたりの間に割って入った。「いい加減にしぃよアンタら。敵がそこまで来とんのに、悠長に議論なんかしとったらアカン。さあ、逃げるで!」
「待って」
 萠黄はむんを引き止めると、ヴァーチャル伊里江の腕をとった。
「行こう。わたしに負ぶさって」
 ヴァーチャル伊里江は一瞬驚いた表情をしたが、すぐおだやかな笑みを浮かべ、
『……私にはすべきことがあります。私はここに残ります』
「アカンよ、すぐそこまで敵が来てるんやで!」
『……判ってます。でも、いいんです』
 二の句の継げない萠黄の肩に、リアル伊里江が手を乗せた。
「……この研究室のデータを私のリュック・パソコンに転送する作業が残っているのです。とくに彼がこの数日、調べ上げてくれた鏡像世界に関する最新データは、今後我々の行動に役立ってくれるでしょうからね。そして転送後は、研究室にあるすべてのデータを消去する必要があります。ただ消去するだけでなく、ハード的に破壊する必要があるのです」
 言葉は淡々としているが、しゃべる彼の顔は苦痛に歪んでいた。
『……それに』ヴァーチャル伊里江が後を継いだ。『私はもう長くはもちません』
 そう言ってTシャツを上げると、脇腹が灰色に変色しており、既に皮膚の質感を失っていた。
 誰も返す言葉がなかった。
 ヴァーチャル伊里江は屈託ない笑顔を浮かべているが、額や首筋には脂汗がにじみ出ている。既にかなりのダメージを受けている証拠だ。
 それだけに彼の笑みは、決意の固さをあらわしていた。
 リアル伊里江もそれを認めている。
 むんは黙って手を差し出した。ヴァーチャル伊里江は無言でその手を握った。萠黄も握手した。
『……リアルの私をよろしくお願いします』
 ヴァーチャル伊里江は椅子にかけたまま、頭を下げた。するとそれが合図だったかのように、頭上でドドドドッというけたたましい音が響き始めた。
「……掘削機械でしょう。地下の存在に気づいたのですね」
「さあ、今度こそ行くで!」
 むんの掛け声とともに、皆は脱出口へと向かった。
 ぽっかりと開いた脱出口のそばでは揣摩と柳瀬が待っていた。揣摩はやきもきする柳瀬をよそに、壁にもたれたまま、うつろな目をあらぬ方向に漂わせていた。
「……私から行きますね」
 リアル伊里江は穴の縁に両手をつき、体操の吊り輪の要領で身体を宙に浮かせた。「では」と言うと手を離し、彼の身体はスッと穴の中に吸い込まれていった。覗き込むと、姿はもう見えない。穴は斜め前方に緩い傾斜で下っており、終点まで滑り台が連れて行ってくれるという寸法だ。
「揣摩さん」
 むんが次の順番をと呼びかけたが当人の答えはなかった。相変わらず壁の前でじっと動かず、顔を両膝の間にうずめている。
 柳瀬はしかし百戦錬磨のマネージャーだった。どっこらせと揣摩を肩に担ぎ上げると、のっしのっしと脱出口に近づき、まるで米俵でも運ぶようなぞんざいさで穴の中に放り込んだ。時には貴重品扱いを忘れることも秘訣のうちだと言わんばかりに。
「お先ね」
 柳瀬の身体も脱出口の中に消えた。
「むんも先に行ってな」
 萠黄が言うと、むんは躊躇の様子を見せたが、軽く頷き、するりと暗い穴の中に飛び込んだ。
 萠黄は最後にヴァーチャル伊里江を振り返った。彼も萠黄の視線に気づき、両手の指はキーを叩き続けながら、彼女のほうを一瞥した。
『……さようなら』
「さようなら」
 萠黄は突っ張っていた両手を離した。一瞬にして光は消え、彼女の身体はチューブの中を滑り降りて行った。

 脱出路の傾斜は出口が近づくにつれてゆるやかになり、終点でスピードはゼロになった。
 待ちかねていたむんが手を差し伸べた。萠黄は起き上がると周囲を見回した。
 自然の手による洞窟。それが第一印象だった。ところどころ人の手で削ぎ落とされた痕があるが、おおむね自然のままのようだ。無骨な小型クレーンや滑車をたらしたウインチなど、重機類が目につく。広さは二十畳ほどだろうか。低い天井にはカンテラが吊るされ、ゆらゆらと影を揺らめかせていた。
 海底探査船はすぐ目の前にあった。思ったより巨大だ。白くのっぺりしたボディーは子クジラを連想させる。
 探査船の前方には海水が寄せていた。洞窟は海水の中へと続いている。
 萠黄とむんは伊里江のそばに駆け寄った。
「おまたせ。すぐ逃げられそう?」
 しかし伊里江は首を振り、洞窟の奥を指さした。
「……ダメです。あの地震のせいでしょう。外海(そとうみ)への出口が塞がっています」



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