Jamais Vu
-115-

隠れ家の謎
(15)

『……すみません、萠黄さん』
 萠黄はヴァーチャル伊里江の言葉に驚いた。
「どうして──謝るの?」
『……転送装置が使えなくなってしまいました』
 むんはすぐ、リアル伊里江に目顔で真偽を訊ねた。彼は目を伏せると、
「……バックアップ電源は、転送装置にはつながっていないのです」
 むんの目は大きく見開かれ、相手の横顔を凝視した。
「ホンマなん?」
 リアル伊里江は、こっくりと頷く。
「クソッ、なんちゅータイミングの悪い!」
 むんは膝を拳で叩いて悪態をついた。
 萠黄はしかし、ヴァーチャル伊里江に顔を寄せると、指先を強く握りながら、ささやいた。
「気にせんといて。わたしは帰るつもりはないから」
 萠黄は、指先を通じて温かいものが伝わってくるのをひしひしと感じていた。
 自分の身をこれほど案じてくれる人たちのために、わたしはこの世界で何かをしなければならない。帰ったりしてはいけない。
 萠黄は目を閉じて息を吸い込むと、つとめて明るい声で、
「さあ、とりあえず逃げましょうよ」
と、皆を促した。
「そやね、こうなったら他にどうしようもないもんね」
 むんも眉を開いて賛同した。しかし座り込んだまま動こうとしない揣摩は無言のままだった。
 ピッピッと新たな警告音が流れた。全員が立体映像に目を走らせる。攻撃機は役割を終えたのか姿を消し、代わりに黄色の光点が時間をおいて次々と映像の中に登場した。合計三。
 リアル伊里江は手を伸ばしてパソコンのキーを叩いた。開いたウィンドウに、白のヘリコプターの正面画が映し出された。迷彩服たちの乗っていたものよりはるかに図体が大きい。
「……おそらく多数の武装兵員が乗り組んでいると思われます。この島に上陸させるつもりでしょう」
 萠黄は、お前らの好きにさせるかい! と心の中で怒鳴った。
「……あと数分で海岸線に達します。これでは地上へ逃げても無駄でしょうね」
「海に潜る船があるんやなかった?」とむん。
「……探査船の定員は二名ですから足りませんよ」
「ほな、イルカになったつもりで泳ぐわ」
「……水深二十メートルですよ。そのうえ海流はひどく速いし、とても泳げるものではありません」
「アンタなぁ」ついにむんの堪忍袋が破裂した。「うだうだ言うとらんと、その逃げ道を開きなさい!」
 するとリアル伊里江はなぜか目を閉じ、何度も頷いた。むんの言い分こそもっともだと思ったようだ。
 彼は、分身を床の上に静かに寝かせると、むんと共に脱出路へと向かった。脱出路の扉のある床にも、棚から落ちた工具類やコンクリート塊が散らばっている。柳瀬も協力して、三人は急ぎ、発掘作業にとりかかった。
『……萠黄さん』
 ヴァーチャル伊里江が、自分も立ち上がろうとする萠黄を呼び止めた。彼女が床に両手をついて覗き込むと、
『……私を、椅子に、座らせてもらえませんか?』
「えっ、でも動かないほうが」
『……かまいません』
 萠黄は言われるままに手を貸し、彼の身体をどうにかパソコンの前に座らせた。
『……ありがとう。私には逃げる前にやっておくことがあるのです』
 短くそう言うと、後はパソコンに向かって、驚くようなスピードでキーを叩き始めた。
 米軍ヘリの一機はすでに島の上空でホバリングしている。兵員が続々と降下しているようだ。もはや一刻の猶予もならない。
 萠黄は脱出路とは反対の、研究室の入口へと駆け出した。自分たちの寝ていた部屋にリュックを置いたままなことに気づいたのだ。
 廊下にも亀裂は走っていたが、こちらは軽微だった。萠黄は寝室に飛び込むと、自分のリュックを背負い、むんのリュックを手に持って、再び廊下に出た。
《………………》
(えっ?)
 彼女の耳が聞き慣れない声を捉えたのだ。
《……******》
(会話みたいや。誰が話してるんやろう?)
 萠黄は心を鎮めて耳に神経を集中させた。声はだんだん明瞭さを増し、やりとりしている言葉が英語らしいことが判った。内容はまったく理解できないが、島に降り立った米兵であることは確からしい。
 萠黄は急ぎ、研究室に戻った。
「大変や! 敵がもうそこまで来てる。話し声も聞こえるし」
「……そんなバカな」
 怪訝な顔をしたのはリアル伊里江だった。彼はやっとのことで開いた脱出扉を離れ、萠黄のそばに飛んできた。
「……この地下室は入口を閉め切ると、一切の物音を遮断する設計になっているのです。聞こえるわけが──」
 そこまで言うと、リアル伊里江は「あっ」と大きな口を開けた。ヴァーチャル伊里江も同時に頷き、つぶやいた。
『……リアル耳ですね』



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