Jamais Vu
-112-

隠れ家の謎
(12)

「決めなさいって言われても……」
 萠黄はリアル伊里江の表情をうかがった。彼は相方と、懸命に島の周囲のセキュリティチェックに追われていたが、ふと顔を上げると、
「……私は戻りません。それでは何のために自ら進んでこちらに来たのか判らなくなります」
 きっぱりと言い切った。
 萠黄は、伊里江の向こうに鎮座している転送装置を見た。巨大なリングがトンネルを思わせるように重なり合っている。
(あの中に入れば元の世界に帰れる。お母さんがまだ生きている、平凡な日常に戻ることができる)
 彼女は自然に前に進み出た。
 萠黄はいま初めて自覚していた。この数日の逃避行で身体も心も疲弊し切っていることを。そんな自分が心の底から渇望しているのは、あの懐かしくも変化の乏しい世界だ。母には職場の愚痴を聞かされ、気まぐれ猫のウィルのご機嫌をとり、お笑い番組に爆笑し、深夜までパソコンに向かっては、ソフトの改良に余念のない日々。良くも悪くも、あの世界は平和で満ち満ちていた。
 それがいま、手を伸ばすと届くところにある。
 ようやくこの非日常から解放されるのだ──。
 萠黄の顔がほころんだのを認めたむんは、親友の肩に手を置き、さとすようにこう告げた。
「決まりやね。萠黄が元の世界に戻りなさい」
 ハッと上げた目線が、むんと重なる。
「あっちの世界のわたしによろしゅうね」
 むんは萠黄の腕をつかむと、引きずるように転送装置の前に連れて行った。リアル伊里江が通路をわきによける。
「エリーさん、わたし──」
「……兄の言いつけに背いたのは初めてですよ」
 彼はぎこちなく微笑んだ。
 反対側の通路では、ヴァーチャル伊里江が複雑な機械を操作していた。すぐに転送装置がうなり始め、リングが重たげに動き出した。いよいよ転送装置が、双方の世界をつなぐ道を開くのだ。
 島の立体映像に見とれていた揣摩と柳瀬も近づいてきた。揣摩は萠黄の前に立ち、彼女の手を強く握った。
「萠黄さん、リアルの世界に帰るのかい? 気をつけてね。どう気をつければいいのか判らないけど」
 その手の温かさに、萠黄は揣摩の深い親愛の情を感じた。柳瀬も背中越しにウンウンと頷いている。
 リングが水平の位置で静止すると、装置の下から長さ二メートルはある透明シリンダーがせり上がってきた。
『……準備が完了しました。萠黄さん、あの中に入ってください』
 ヴァーチャル伊里江がシリンダーを指さした。シリンダーの横に、くぐれるほどの穴が穿たれている。
 萠黄は、この期に及んでようやく冷静さを取り戻した。
(自分だけが元の世界に戻ってもええんやろか。戻ってしもたら、ここにいる人らの安否なんか判れへんようになる。今後のなりゆきも知ることがでけへん──)
 そんな萠黄の懊悩(おうのう)を知ってか知らずか、むんは萠黄の背中を押した。
「さあ急いで。ゆっくりされたら、わたしらが逃げ遅れるから」
「でも」
「でもはアカン」むんは萠黄に顔を近づけた。「判ってる? 敵の狙いはアンタやねんで」
 そのとおりだ! 迷彩服たちの目的は、あくまで“リアル狩り”であり、ヴァーチャルには何の用もないのだ。
 この研究所がもしも敵の手に落ちたりしたら──。
 リアル伊里江が無事に脱出すれば、残された人たちはヴァーチャルばかりである。彼らの運命はどうなるのだろう。リアルの逃亡先を知るために、彼らを拷問にかけたりしないだろうか?
 萠黄の心中で、ますます葛藤が渦を巻いた。
(ああ、もっと時間がほしい!)
 萠黄はうつむいたまま、床をにらみつけた。
 ポタッ。
 床の上に一粒の水滴が落ちた。
 萠黄は驚いて親友の顔を見上げた。長いまつげの奥の目があふれんばかりの涙をたたえている。
「むん……」
 その時──。
「……飛行物体が高速接近中!」
 リアル伊里江が絶叫した。全員の目が彼に注がれる。
「飛行──物体? 飛行機か!?」と揣摩。
「……のようです。来ます!」
 立体映像の上では、高速で移動する青い光点が今まさに海岸に達しようとしていた。
「あっ!」
 青い光点から小さな点が分離した。ふたつだ。そのうちのひとつが青い円弧を描いて島の中央に吸い込まれていく。ミサイルだ!
 ズズーンッ。
 地鳴りのような音が部屋全体を揺るがし、天井から土ぼこりが落ちてきた。萠黄は頭を覆った手の間から、おそるおそる天井を見上げた。いかにも頑丈そうな天井はヒビひとつ入っていない。
「……この地下室は冷戦時代に、当時の持ち主がシェルターとしても使えるよう設計したそうです。だからある程度の衝撃には耐えられるでしょう」
「今のはミサイルやね。としたら、発射したのはジェット戦闘機なん?」とむん。
「そういうことになるな。しかし、たかがナマ身の人間五人を相手にやることかいな?」と揣摩。
「見て!」
 むんが指さしたのは、発射されたもうひとつの光点だった。目標を逸れたミサイルは島の上空を通過し、海岸に迫っていた赤い光点に突っ込み、爆発していたのだ。
 同士討ち!、と柳瀬が声を裏返して叫んだ。
 ヴァーチャル伊里江がカメラ映像を切り換えた。映像ウィンドウが、反転してくる戦闘機の姿を捕捉した。
 胴体には白い星をあしらったマークが付いていた。


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