「まさか、お前の兄貴じゃないだろうな!」
揣摩の詰問口調に、伊里江はわずかに首を傾げただけだった。
ゆっくりとこちらに近づく足音。揣摩はそれを伊里江の行方不明中の兄だと言うのだ。
「このオタク野郎、人をおちょくりやがって!」
揣摩は口汚く叫ぶと、背中に隠していた拳銃を取り出し、筒先を伊里江に向けた。
「揣摩さん!」
「タロちゃん!」
皆は驚きの声を上げた。しかし揣摩はまったく意に介さず、
「俺はずっとコイツの話は怪しいとにらんでたんだ。リアルだとかヴァーチャルだとか、わけのわからん単語を並べやがって。すべてはお前らイカサマ兄弟がでっちあげた空想話なんだろうが!」
萠黄が昼間、聞かされた話だ。疑惑に疑惑を重ねて、揣摩はとうとう限界を超えてしまったのか。
当の伊里江は、銃口を向けられても表情ひとつ変えず、そばにある回転椅子にスーッと腰を落とした。
「……揣摩さん。ずっと私を疑っていたのですね。まあ無理もないでしょう。信用してもらうには、直接証拠が少な過ぎますし」
「ゼロなんだよ! 証拠なんて」
吐き捨てた揣摩の顔がだんだん白くなってきた。引き金にかけた指がブルブルと震えている。
テーブルの上で両手を合わせた伊里江は、ため息をひとつつくと、身体を揣摩に向け、深々と頭を下げた。
「……すみません。私の説明に至らぬ点があったようです。でも彼に会えば、少しは信用してもらえるかもしれません」
「彼だと?」
「……紹介します」そして入口を向くと、「……入ってもいいよ」
ドアが開き、ひとりの男がゆっくりと戸口に姿を現した。それを見たむんたちは、自分の目に映ったものが信じられなかった。
部屋に入ってきたのは、もうひとりの伊里江だった。
つまり、ふたり目の伊里江が登場したのだ。
誰も声が出せなかった。揣摩は銃を持つ腕がだらんと下がったことにも気づかず、瓜ふたつの伊里江たちを交互に見つめていた。
「──ヴァーチャルさんでしょ?」
最初に正体を見破ったのは、萠黄だった。
『……あなたが、モエタンですね?』
ふたり目の伊里江は、喜びにあふれたまなざしを彼女に向けた。
十分後、いくぶん落ち着きを取り戻した四人は、あらためて伊里江の紹介を受けた。
「……彼が、この世界にいた、私のヴァーチャルです」
『……初めまして。リアルがお世話になってます』
ふたりの伊里江は、四人の正面に並んで座った。リアル伊里江は白のTシャツ、ヴァーチャル伊里江は紺のTシャツを着ている。
「はーっ、見れば見るほどそっくりねえ」
柳瀬が感嘆の声を漏らすと、
「隅から隅まで、鏡に映したみたいに左右反対やね。髪の分け目からホクロの位置まで」
と、むんも感想を述べる。
「……この傷跡を見比べてください」
リアル伊里江が左腕を差し出した。二の腕の裏側に古い傷跡があった。
『……私のは、これです』
ヴァーチャル伊里江が両方の袖をめくり上げて、自分の二の腕を示す。ヴァーチャルの傷跡は右腕にあった。まさしく鏡で映したような位置に、裏返した形で。
「……鏡像宇宙が誕生した時、私はまだ向こうにいました。その後、自力で──あの転送装置でこちらの世界にやってきたのです」
「だから、ふたりいるんやね」
むんは感慨深げに言った。
ヴァーチャル伊里江はおもむろに口を開くと、遠い目をして話し出した。
『……鏡像宇宙の誕生時間が過ぎた後、私は自分がどちら側の人間なのか、すぐに検査機で確認しました。さすがにヴァーチャルであることを知った時はショックでしたが、そのままじっと待っていました。すると計画どおり、リアルの私が転送装置でやってきました。そして彼はすぐに“リアル狩り”に出かけたという次第です』
「どうしてこの世界に不慣れなリアルさんのほうが、島を出ることにしたの?」
『……あなたはむんさん、でしたか? その質問は当然ですね。理由はいたって簡単です。この世界の私は身体が弱いからです』
そうなのだ。同じに見えて、彼は怪我をすると即お終いなのだ。
『……それに、ここのコンピュータは、彼には扱いづらいですしね』
(逆さまのキーボードはムチャクチャつらい)
「おい」
それまで黙っていた揣摩が、ヴァーチャル伊里江に話しかけた。
『……何でしょう? 揣摩さん』
揣摩は手近にあった紙とペンを揃えて、机の上に差し出した。
「俺の言葉を言ったとおりに書いてみろ。お前もだ、リアルさん」
ふたりの伊里江は言われるままにペンを取り上げた。
「行くぞ。──“江戸末期の激動の時代を生きた私は、文明開化の世を見ることなく、この世を去った”」
揣摩は二度繰り返した。
(昨年演じた大河ドラマの役柄や)
萠黄にはすぐ判った。
ふたりの伊里江はそれぞれ異なる利き腕でさらさらとペンを走らせた。できあがった文章は、一枚の紙の左右に、まるで反転コピーかと思えるほど、きっちり左右対称に書かれていた。
「……信じてもらえましたか? リアルとヴァーチャルであること」
彼らには十分意図が伝わっていたようだ。
「とりあえず、な」
揣摩は横を向いて、ふんと鼻を鳴らした。 |