Jamais Vu
-98-

島へ
(10)

 まぎれもなく萠黄の父親の声だった。
(どうしてお父さんが……)
 困惑する萠黄の頭の中で灰色の霧が渦巻くと、それは徐々に父親の姿をとり始めた。父親はあやふやな輪郭を伴って現れ、あやふやな笑顔を萠黄に向けた。
『そういうもんや、萠黄』
 父親は再び声を発した。しかし父親の唇は閉じられたままだった。閉じたまま笑みだけを浮かべていた。

「そういうもんや」は父親の口癖だった。父親は争い事を好まない人で、萠黄は一度も彼の怒る顔を見たことがなかった。穏やかな性格というより、気の弱い人だった。
 光嶋一家の住むマンション自治会に乞われて会長になったものの、面倒なことばかり押しつけられて、父親は始終右往左往していた。夏の日曜日、当番はみんな遊びに出かけるための言い訳を並べて参加せず、ひとりマンション前の草取りをしていた父親の姿を思い出す。萠黄はそんな父親がじれったく、腹立たしかった。
 父親はどこかの会社の研究所に勤めていたが、萠黄にはちっとも自慢のできる父親ではなかった。体格的にもひ弱な人で、海に遊びに行ったときも、父親はひとり砂浜でじっとしていた。遊園地で高いところは怖いと観覧車にも乗らなかった。
 萠黄は一度父親に向かって、面倒ごとを父親ばかりに背負わせるご近所さんをなじったことがある。その時、父親は「そんなもんだ」とつぶやいて取り合わなかった。
 母親は活発な人だったにもかかわらず、父親の不憫な姿に憤ることもせず無視し続けた。「お父さんは言っても聞かないもの」と母親は言った。
 ふたりが離婚する際でさえ、父親は何も語らなかった。何も語らないまま、すごすごと家を出て行った。今頃どこでどうしているのか萠黄はまったく知らないし、最近では思い出すこともなくなっていた。
 なのに。
(なんでここでお父さんが出てくるの?)
 そういうもの──。父親が口にすると、なげやりにしか聞こえない。しかし今、とても理解しにくい、理解できないことを目前にしてその言葉を聞くと、なぜかホッとした気持ちになれた。
(お母さんは理解できないことがあると、相手が間違ってると決めつけ、突っぱねる人やった。でも──、そんなもんやと思えば、ちょっとは理解できるようになるんやろか……。むんの気持ちが理解できるんやろか)
「こっちやでぇ」
 むんの呼ぶ声に萠黄は現実に引き戻された。萠黄は頭を左右に振ると、買い物かごを握り直し、レジで待つむんの元へと急いだ。

 エスティマの運転席では、柳瀬が退屈そうに駐車場を出入りする車を眺めていた。運転してる最中は長距離にも疲れた顔を見せず喜々としていたのに、停まったとたんに素に戻る。じっとしてるのが苦手なのかもしれない。きっと運転中は《変身中》なのだ。萠黄はむんと顔を見合わせてくすっと笑った。
 伊里江は相変わらず背もたれに身をゆだね、じっとしている。瞑想中なのか眠っているのか、閉じた目はぴくりとも動かない。
「どうもどうも、お疲れさまです」
 扉を開けた柳瀬は、ふたりの手から買い物袋を受け取った。
「揣摩さんは?」
 萠黄が訊ねると、
「煙草休憩ですよ。裏のほうへ歩いて行きました」
「わたし、呼んできます」
 萠黄は駆け出した。
 駐車場の裏手は工事現場だった。近々ビルが建つらしく巨大な鉄骨が並べてある。揣摩はその鉄骨の一本に腰かけて紫煙をくゆらせていた。
「揣摩さん」
「お、来たな風上娘」
 確かに萠黄は煙を避け、風上から近寄っていた。
「お昼ご飯、買ってきましたよ」
「ありがとう。吸い終わるまで、もう二分くれたまえ」
 おどけたように言うと、揣摩は急いで残りを吸い始めた。萠黄は辺りをぐるっと見回した。工事現場に人の気配はない。戒厳令の影響だろう。
「萠黄さん」
 揣摩に名前を呼ばれて萠黄はドキッとした。やはり男性とふたりっきりになると胸の動悸が高鳴ってしまう。
「君には知っておいてほしいんだが、俺はあのエリーって奴を信用していない。奴の話は全部でたらめだ」
「……」
「奴には何か別の狙いがあるに違いない。俺たちを淡路島に連れて行って、どうにかするのかも」
「どうにかって?」
「そりゃあ、うん、判んないけどさ」
 萠黄は揣摩の美しい横顔を見上げた。
「──奴の兄貴がとんでもない発明をして、世界が鏡に映ったみたいに裏返ったなんて、冷静に考えると荒唐無稽の極みだよ。北海道が消えたのは、きっと奴の兄貴とは無関係だ。奴の言葉に振り回される必要はない。君が銃弾を跳ね返したのだって裏があるんだと思う」
「裏、ですか」
「あの時にエリーが撃った弾には仕掛けがしてあったんだろう。そうやって君をリアルなんて存在に仕立て上げた。さらに迷彩服どもの襲撃を受けた時、奴がガスを操って敵を退治したのも巧妙なタネが隠されているんだ。奴の正体はマジシャンだと俺は見るね」
「でも、わたしにとっては見るもの触るもの、本当にすべて逆なんです。エスティマも左ハンドルに見えるし」
「うーん、その件は……置いとこう」
 萠黄は眉を曇らせてうつむいた。揣摩は萠黄が病気だと決めつけてるんじゃないだろうか。左右が認知できないような障害だと。
「全部ウソやとしたら、エリーさんにどんなメリットがあるんでしょう?」
「メリットはある。エリーの奴は今でも兄貴と通じてるのさ。何の関係もない北海道消失に事寄せて、外と内から世間を騒がせ、兄弟で表舞台に返り咲こうという魂胆なんだろう」
 なるほど、揣摩の語るストーリーのほうが一般人には飲み込みやすいだろう。しかし萠黄は知っているのだ。自分の周囲の世界は明らかに裏返っているし、自分の身体は正真正銘の銃弾を跳ね返した。あの時、全身を貫いた衝撃が今でも胸で疼(うず)いている。
 どうにかしてそのことを証明できないだろうか。みんながバラバラな思いを抱いていたら、この先どうなるか。萠黄は爪を噛んだ。どうすれば──。
 ふいに萠黄の足がふらついた。
(危ない、目暈(めまい)や)
 しかし揺れはみるみる激しくなり、萠黄は悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
「地震だ!」
 揣摩が叫んだ。



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