萠黄は握られた手を強く握り返した。むんはホッとしたように肩の力を抜いた。萠黄はむんの手を離さなかった。離せばむんがどこか遠くに流れて行ってしまいそうな気がした。
「驚いたやろね。わたしに男友達がいたこと」
「少し」
「耕平さんも北海道事件の遺族やったんよ。いっしょに活動してるうちに打ち解けていろいろ話すようになってね。熱心な活動家やったけど、結論を急ぎ過ぎる人やった。……あの人ね、会うてから五日目に、わたしにプロポーズしたんよ」
「ほえ?」
萠黄は商品棚に足を引っかけ、前につんのめった。
プロポーズ──!?。
「だから、わたし……」
しかし、それきりむんは口をつぐんでしまった。
ふたりは通路の間を商品を眺めることもしないで、ただとぼとぼと歩いた。
「アカンね、ゆっくりしてたら揣摩さんらに叱られる」
むんはサングラスを外すと、明るい口調で言った。
「急ごう。わたし、ドリンクを見てくるわ。萠黄はお菓子を見つくろってな」
微笑みを残して、むんは別コーナーに去った。
萠黄はお菓子コーナーへと歩を進めた。陳列された色とりどりのパッケージが彼女を待ち構えていた。新作チョコレートが萠黄を手招きしている。手に取ると金文字で書かれた"Bitter"の逆さ文字が、黒いラベルの上で怪しく光り輝いていた。
結婚という概念は自分には無縁なものと思っていた。いや無縁かどうかも考えたことがなかった。まだ十九歳だったし、むんもそうだ。自分たちはまだ大学の一年生なのだ。
でもむんは自分などより見た目も考え方もはるかに大人だ。自分と違って社交的だし話し上手だから、人前に出ても物怖じせず、考えをそつなく主張することができる。本人は嫌がっているが、北海道事件の遺族会の広告等的存在になり、テレビに映る機会も増えていた。芸能プロダクションからのオファーが後を絶たないのも当然だろう。
親友はスーパーウーマンなのだ。
スーパーウーマンが親友なのだ。
でも、ふたりきりでいるとそんな思いは頭の中から消えてしまう。むんは常にむんであり、共に笑い共に泣く、唯一気の置けない存在なのだ。
ただ、両親と弟を失って以来、むんの感情表現に若干の遅れを感じるようになった。彼女の返事に一瞬、ためが入るようになったのだ。まるで話そうとする言葉のひとつひとつを検査にかけているような。
むんは変わった。そう気づいた時は悲しかった。
北海道消失事件以後、我が国や近隣諸国が受けた政治的経済的影響ばかりが取り沙汰され、遺族の心のケアにスポットを当てたマスコミは少なかった。テレビでは連日、知床半島や富良野や美瑛や摩周湖などの映像が流され、我々はいかに貴重な財産を失ったかを繰り返し印象づけようとした。驚くことに、3Dホログラフィック技術を駆使して、ヴァーチャル北海道を海上に原寸で再現しようという計画まであるという。
遺族たちはそんな世間の風にいらだち、立ち上がった。会員数百万人に達しようかという遺族会は、まず人間を優先せよと、残された者の心のケアをと強く訴えた。
むんは遺族会の活動を優先するために大学を休学し、生活していくためにアルバイトに精出すようになった。母は「部屋はたくさんあるから、いっしょに住んだらどない?」と勧めたが、むんは丁重に辞退した。彼女は自立心を養いたいと言った。
ふたりの境遇に開きができても、萠黄にとってむんは不動の親友だった。それは今日まで変わらない。
(けれど、むんにとってわたしは本当に親友やったんやろか)
自分はこれまで、むんには何ごとも包む隠さず話してきた。むんはいつも真剣に話し相手になってくれたし、熱心に相談に乗ってくれた。学校の先生のように「考え過ぎだ」と鼻で笑ったりはしなかった。
(でも、むんがわたしに深刻な相談を持ちかけてきたことは一遍もない。彼女はいつも、自分には問題など何もないという顔をしていた)
彼女にだって困り事や悩みはあったはずだ。ましてや人生を変えるほどの事件に遭遇して、その苦労は並大抵ではなかったはず。
彼女は自分の抱える問題を誰に相談したんだろう? バイト先や遺族会など、彼女は相談相手に事欠かなかったに違いない。わざわざ自分に相談する必要などない。だいいち持ちかけられても自分はこれっぽっちも有益な助言を与えることはできなかっただろう。
(むんはわたしを親友と思ってくれてるんやろか?)
考えたくない疑問だ。でもひょっとしたら、自分はむんの大事な友達の中のひとりでしかないのかもしれない。
あの耕平という男性──。きっと彼がむんにとって一番身近な相談相手だったのだ。一番大切な存在だったのだ。そして──恋人だったのだ。
できれば聞きたくなかった。むんにカレシが、恋人がいたなんて聞きたくはなかった。むんはいったいどういうつもりで自分にプロポーズされたことなんて話したのだろう。しかも唐突に。
いや、むんにカレシがいたっておかしくないとさっき思ったばかりじゃないか。でもそんな話は聞きたくなかった。──ああ、堂々巡りしてる。
耕平という人。チラッと見た限りではなかなかカッコいい男性だった。むんはどうして別れようとしたのだろう? 喧嘩でもしたのだろうか。結論を急ぎ過ぎる彼に嫌気がさしたのだろうか。判らない。
もっと判らないのは……そんな相手の死に、むんはかつてない取り乱しかたをした。まるで肉親をなくしたような嘆きかたを見せた。
『そういうもんや』
突然、頭の中に思いがけない声が聞こえてきた。
──お父さん。 |