Jamais Vu
-91-

島へ
(3)

 一同は凍り付いたように動きを止めた。柳瀬などはサンドイッチにかぶりつく直前で口を開いたままフリーズしている。
 彼らのそばだてた耳は、男性のわめき声を捉えた。
「アパートの下からや」
 つぶやいたむんが最初に動いた。彼女は摺り足で玄関に向かうと靴も履かずに三和土(たたき)に降り立った。揣摩と伊里江も続く。萠黄もツバを飲み込んでから後を追った。
 扉を背にしたむんは音を立てずに錠を外し、背中で押しやりながら細めに扉を開いた。
 わめき散らす声は階段を下りた辺りから聞こえてくる。
『──他人ン家の郵便受け覗いて、泥棒かあんたらは! なんやねん、その軍隊みたいな迷彩服!』
(迷彩服!!)
 全員に緊張が走った。
「あの声はさっきの?」揣摩が小声で訊ねる。
「耕平さんや」
 それにしても大きな声だ。ご近所にまる聞こえだろう。
『──そやから二○三号室の舞風さんは留守やて言うてるやないか。俺も用事があって寄ったんやけどおれへんかってん。もう大学に行ったんちゃうか』
 むんはハッとした。
「あの人、わたしに伝えようとしてるんやわ!」
「そうか、こっちに聞こえるよう、わざと大声を張り上げてるんだな」
 揣摩は長身を活かして扉の上方から階段を見おろした。身体を張って通せんぼしている耕平が対峙している相手は──
「奴らだ! もう嗅ぎ付けやがった!」
 そう言って、ドアノブを引いて扉を閉じさせた。
「舞風さん、どこか逃げ道はないか」
「ある。奥のベランダから降りれば、裏のアパートとの間が狭い路地で、なんとか人ひとり通れる」
「よし、みんな、靴を持ってついてこい!」
「履いていってええから」むんが言った。
 揣摩たちは靴を履くと、廊下を取って返した。萠黄は土足のまま、むんの寝室に入り、リュックをつかんだ。
「柳瀬、ホラ、靴だ」ひょいと渡すと「お前の横幅は、裏道を通れるかなぁ」
 ベランダに出て下を見おろした伊里江は、
「……こっちに奴らはいません」
「よし、俺から行こう」
 揣摩はひらりとベランダを越えると、いろんな出っ張りをつかみながら、スルスルと身軽に降りていった。
 萠黄もダイニングから出ようとして、親友の姿がないことに気がついた。
「あれ、むんはどこ?」
 振り向くとむんはまだ玄関にいて、扉の隙間から階下のやりとりをうかがっている。
「むん、むん!」
 萠黄はリュックを背負い直すと、飛ぶように玄関に取って返した。その時。
 ポウッ。
 奇妙な発砲音が萠黄の耳たぶを叩いた。同時にむんの横顔が強ばった。
「こ、耕平さ──!」
 目を見開き、我を忘れて飛び出そうとするむんの手を、萠黄はすんでのところでつかみ止めた。
「アカンよ、出てったら殺される!」
「でも、でも、耕平さんが!」
「むん!」萠黄は目を閉じたままブルブルと頭を振った。
「逃げるのが先や!」
 カン、カン、カン。
 階段を昇ってくる足音。
 萠黄はむんに両腕を回して、強引に中へと引きずり込んだ。そして身体を入れ替え、震える手で素早く錠を下ろした。心臓が破裂するかと思うほど、激しく胸を打ち鳴らしている。
「むん、立って!」
 それでも動かない親友を、萠黄は渾身の力で引きずりながら部屋の奥へと連れて行った。
 ドンドンドンッ。扉が叩かれる。
「ひっ」
 萠黄は生きた心地がしなかった。汗が全身からドッと噴き出す。彼女はむんの腕をつかんだまま、ベランダから身を乗り出した。
「た、高い──」
 見おろした地上ははるか遠くにあった。今さらながら高いところの苦手な性分が彼女の足をすくませる。
 ドンドンドンッ。乱暴なノックは続いている。突破されるのも時間の問題だ。
 先に路地に降りた男たちが「早く早く!」と急かしている。
(アカン、わたしには無理。足が震えて力が入らへん)
 萠黄は敷かれたタイルの上にへたりこんだ。むんもベランダを囲むフェンスを背にストンと尻餅をついた。
「………」
 萠黄の耳にむんのつぶやきが聞こえた。顔を上げた時、むんの目から大粒の涙がこぼれ落ちるのが見えた。
「耕平さんが──撃たれたよ──」



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