Jamais Vu
-90-

島へ
(2)

「……本当ですか」
 すかさず反応したのは伊里江だった。
「ウソなもんか。冗談でそんなことを口にする相手じゃないからな」
「女性──のかた?」
 萠黄は思わず訊ねた。揣摩は視線をわずかに揺らすと、妙な間(ま)を置いてから頷いた。
「ミュージシャンなんだ。軽井沢を拠点にしてる人でね。伯父さんとやらが来たから大丈夫とは言ってたけど」
「……心配ですね」と伊里江。
「ああ、敵方にその通話を傍受されたら、彼女も標的にされる恐れがある」
 揣摩は不安げな顔をうつむけ、握り拳に力を込めた。
(揣摩さん、その女性のことが心配でたまらへんのやわ。恋人かどうかは知らないけど、きっと好きなんやな)
 萠黄は自分の前に置かれたカップに目を落とした。見つめていると、その中に吸い込まれ、溶けていくような気がした。注がれた湯に何もかも濾(こ)し出されたコーヒー粉のように。
 突然現れた親友のカレシ。憧れの人のカノジョ的存在。
 萠黄は両手を合わせて顔をもたせかけた。
 ──別にいいじゃない。むんにカレシがいようがいまいが。自分とむんとの友情には何の関係もない。だいいち、むんほど綺麗で魅力的な女性にカレシのひとりやふたり、いても不思議はない。いて当然だ。
(でも、わたしは知らなかった)
 カップから立ちのぼる湯気を萠黄はじっと見ていた。
 伊里江は萠黄の心中も知らず、相変わらず妙なイントネーションで感心している。
「……驚くほどの偶然ですね。揣摩さんはこの広い日本で、三人のリアルと接触したんですよ」
「別に俺のせいじゃない。お前は自分から接触してきたわけだしな」
 その時、「お待たせですー」と扉を開けて柳瀬が帰ってきた。いきなりむくれた顔の男性が出迎えたので度肝を抜かれたようだ。挨拶しても反応がないのに首を傾げながらも、ペタペタとダイニングに入ってきた。
「遅くなりました。朝ご飯ですよー」
 ビニール袋を逆さにして、テーブルに山のようなサンドイッチを広げる。
「ちょっと買い過ぎじゃないのか」
「ノー・プロブレム。残ったら私がいただくから。ところで舞風さんはまだ?」
「そろそろだろう」
 柳瀬は確かに小太りだが、かいがいしく動いて三人にそれぞれサンドイッチとドリンクを配ってまわる。
「玄関におられるかたには?」
「いらんいらん」
 揣摩がそう言った時、
「ただいま」
 むんが扉を開けて入ってきた。
「むん!」
 男ははじかれたようにスクッと立ち上がった。
「耕平……なんでこんな時間に」
「君がもう一週間も連絡くれへんからや!」
 男はダイニングにいる萠黄が耳を塞いでも聞こえるほどの大声で答えた。
「ゴメン、でも今は耕平と話してる時間ないねん」
 そう言って靴を脱ぎ、中に入ろうとするむんの腕を男は荒々しくつかんだ。
「それはないやろ。昨夜も終電までアパートの前で待っとったんやで」
「急にそない言われても困るわ。私もいろいろと忙しかったんやから」
「そんな言い草ないやろ! 戒厳令みたいなんが出たから、お前のこと心配しとったんやで」
 ダイニングの四人は硬直したまま耳だけを大皿のように広げ、事の成り行きを静かに見守っていた。
「とにかく今は時間がないから」
「ないからどないやっちゅーねん」
「離してよ。痛い」
 男はしぶしぶむんから手を離した。むんは視線を床に落としながら髪をかきあげると、
「もう終わりにしましょう」
「………」
「前にも言うたけど、これ以上続けるのは無理よ」
「……本気なんやな」
「……ごめん」
 カタン。男は合鍵を下駄箱の上に置いた。そして無言で扉を開けると表へと出た。身体が震えている。
「元気でな」
 振り向かずにそう言い残すと扉は閉じられた。カンカンと階段を降りていく音が遠ざかっていく。
 しーんと静まり返る室内。
 ややあってむんは歩き出し、暖簾を分けてダイニングに入ってきた。そして深々と頭を下げると謝罪の言葉を口にした。
「どーも、お見苦しいところをお見せしましたぁ!」
 それを機に室内の緊張は解け、誰も何もなかったような顔で「おかえり」とむんを迎え入れた。むんは丈の短いベージュのカットパンツと濃いグリーンのプリントTシャツに着替えていた。
「いい車はあった?」すかさず揣摩が訊ねる。
「えーっと、揣摩さんのご希望どおり、ありふれたワンボックスにしましたので」
 むんは笑顔で答えた。萠黄は複雑な思いが胸につかえたままだったが、ひとまずホッとすることにした。
 しかしなごんだ雰囲気を吹き飛ばすように、伊里江が叫び声を上げた。
「……静かに!」
 彼はシーッと口の前に指を立てると、
「……誰か外で叫んでいます」
 そう言って皆の注意を喚起した。



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