Jamais Vu
-89-

島へ
(1)

 誰かが荒げてた声を張り上げている。
“なんでアンタなんかが、こんなところにおんねん!”
 聞いたことのない声だった。別の誰かに向けて激しく言い募っている。
 目を覚ました萠黄は、額に置かれた濡れタオルを取ると、半身を起こして自分のいる場所を確認した。
 部屋には見覚えがあった。記憶とは左右逆だが、間違いなくむんの家だ。彼女は富雄駅から徒歩三分のアパートの二階に、家族を亡くした直後からひとりで住んでいる。部屋はダイニングの他に、四畳半と六畳の部屋があり、萠黄が今いるのは六畳の寝室兼勉強部屋だ。
“俺は留守番を頼まれてるだけです”
“ウソつけ。言い訳にもならんことを”
 言い争いは続いている。萠黄はベッドの枕元にある卓上時計を見た。九時十分を指している。
 萠黄は思い出した。モデルハウスから出ようとした辺りから身体が火照り出し、車の中で倒れてしまったのだ。きっとむんが自分の家で寝かせようと主張してくれたのだろう。重ね重ね、また迷惑をかけてしまった。
 ベランダに面した遮光カーテンの隙間から、のどかな太陽の陽射しが畳の上に落ちている。あんなに熱かった身体も今はすっかり元通りだ。
 萠黄はベッドを下りるとカーテンを開き、鏡台で髪を整え、ダイニングとの境にある引き戸をそうっと開けた。諍(いさか)いの声が続いている。玄関からだ。
「とにかくオレはここを動かないからな」
「どうぞご勝手に。おっつけ、舞風さんも帰ってくるでしょう」
 後の発言は揣摩で、憤る相手に対してできるだけ冷静に対処しようと自分を抑えている。どうやらむんはいないらしい。
「……萠黄さん、もう起きて大丈夫なのですか」
 ダイニングの椅子に座っていた伊里江が萠黄に気づき、腰を浮かせた。
「うん、平気」
「……それは良かったですね」
 伊里江はホッとして椅子に腰を落とした。
「やあ萠黄さん、どう?」
 揣摩がスリッパをペタペタ鳴らしながらダイニングに戻ってきた。
「おかげさまで。……どなたかお客さんですか」
「ああ」揣摩は顔をしかめて肩越しに玄関をにらんだ。
「舞風さんのボーイフレンドらしい。いきなり訪ねてきて怒鳴り出すんだから始末に負えない。まあ俺たちもここにいる理由を明かせない弱みがあるし」
「ボーイフレンド……」
「合鍵まで持ってるんだからたぶんそうだろう」
 萠黄は激しいショックを受けた。むんに彼氏がいるなんていう話は一度も聞いたことがない。そんなそぶりも見たことはなかった。ましてや合鍵を渡すほど仲のいい男性がいたなんて。
 ダイニング入口の可愛い暖簾の間から、玄関の上がりがまちに腕組みをして座っている恰幅のいい男性の背中が見えた。
「コーヒーをいれるよ」
 揣摩がしかめっ面を無理に解くように引きつった笑顔を浮かべると、キッチンの上からコーヒーポットを取り上げ、カップに注ぎ込んだ。
「どうぞ」
 天下無敵の超人気アイドルが給仕してくれている。ふだんなら卒倒モノだが、今はそれどころではない。むんはどこにいったの?
 萠黄の不審を察したのか、揣摩も横に腰掛けると、
「話しておくよ。舞風さんは君が倒れるとすぐここに連れてくることを提言した。幸い追っ手の姿はなかったしね。君をここに連れ込むと俺はすぐ柳瀬に車を始末するよう指示した。どこか目立たないところに乗り捨ててくるようにと。あの車からアシがつくことを恐れたんだ。
 舞風さんにはレンタカーを借りに行ってもらった。俺や柳瀬は身元の痕跡を残すとマズいし、エリーは免許を持ってないからね。でもレンタカーのオフィスは隣り駅の東生駒とやらにあるらしく、電車に乗って行ったよ」
 揣摩はテーブルの上の液晶時計に目を走らせた。
「そろそろ戻ってくる頃だとは思うけど」
 それっきり会話は途切れ、沈黙が家の中を支配した。
 窓の外では駆けていく子供の声がする。お母さんがたが集まって何ごとか早口で話し合っている。
 むんの家にはテレビがない。新聞も取っていないから世の中の出来事が判らない。携帯電話でネット接続すればニュースに目を通すことはできるが、敵にここを知られる恐れがある。キングギドラはそう言った。
 昨夜出た戒厳令とはどんなものなのか。世の人々はどう受け止めたのか。気になるところだ。
 目の前にいる揣摩が青い顔を傾けてフウッとため息をついた。チラッと見た彼の顔には数カ所の傷があった。小さな火傷の痕もある。萠黄はあらためて今朝の脱出劇の凄まじさを思い出し、全身に鳥肌の立つ思いがした。
「ついさっきのことだけど」揣摩が沈黙を破って、ぼそりとしゃべり出した。「信州にいる友人に電話をかけたんだ。そしたらこう言うんだよ。──自分を取り巻く世界が、鏡の国みたいに裏返ったって」



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