Jamais Vu
-87-

脱出の朝
(10)

 ──右と左。
 ──銃弾を跳ね返す身体と砂と化して崩れる身体。
 ──リアルとヴァーチャル。
 ──この世界に災いをもたらす存在と、それを殲滅せんとする存在。
 萠黄の両目から熱い涙がとめどなく流れ落ちた。彼女はそれを拭おうとしなかった。涙がオブラートとなって周囲の景色を和らげてくれるから。
 それほど萠黄の周りは酸鼻(さんぴ)を極め、破壊の限りが尽くされていた。
 萠黄の目の先には美麗なシステムキッチンがあった。今はその片鱗も見えない。落下した天井の一部がのしかかり、炎の熱でぐにゃりと曲がったステンレスの残骸がかろうじて見えるだけだ。
 朝の陽光が眩しい光を萠黄の横顔に降り注いでいる。ダイニングの壁も天井も、その上の二階部分まで消えてしまっては陽射しを遮るものは何もない。キザギザに残る壁の端くれが、彼女の膝に複雑な影を落としていた。
 涙越しに見る光景は、白く、幻想の世界のようだった。すべてが夢であったらと思わずにはいられなかった。しかし──。
 血のにおいが彼女を現実の世界に呼び戻し、絶望の底へと突き落とす。
 敵味方の区別なく、周りで次々と命が失われていく。
 望んでもいないのに別世界へと送り込まれ、重火器を携えた恐ろしい人間たちが命を奪おうと迫ってくる。
(わたしが何をしたというの!?)
 萠黄は頭を垂れた。元の世界に戻りたい。元の自分の生活に戻りたい。何のとりえもない平凡な日々、鬱々としたあの日々に戻りたい。母やむんに迷惑をかけっぱなしで、テレビとパソコンがあればいい生活に戻りたい!
“萠黄、どこも怪我はない?”
 むんの声が遠くでした。隣りの家のテレビ音声みたいに、あやふやでつかみどころのない声だった。。
“揣摩さん、あなたは?”
“えぇ? あぁ”
“もう、しゃんとしぃーよ。リーダーでしょ?”
“撃ち合いは終わったの?”
“まったく……部屋の真ん中にぼーっと座ったままで無傷やなんて信じられへんわ。運は百人前やね”
“……サイレンの音がします。たぶん消防車でしょうね。早く逃げましょう”
“揣摩さん、柳瀬さんに電話してよ”
“そうだった、ちょっと待って。しかし熱いな”
“火が燃え広がってるんよ。ここを離れるのが先決やね。萠黄、立って”
“……支えを失った二階はいつ崩れてもおかしくない状態です”
“もしもし柳瀬、待たせたな。すぐ来てくれ”
“萠黄、しっかり歩きなさい”
“……勝手口の方が外に出やすいと思われます”
“駅前のロータリーで待機してたんだな。そこからならすぐだ。北西に携帯ショップとケンタッキーがある。その間の道を進むんだ。この通話は切るなよ”
“落ちてきた屋根がうまい具合に逃げ道を覆ってくれてるわ。このまま裏に出ましょう”
“そうそうその道だ。……その辺りの様子はどんなだ? ……フンフン、なるほどね”
“どない言うてはる?”
“道路には結構人があふれてるそうだ。ガス爆発は無駄じゃなかったらしい。唐突な戒厳令とやらも我が国民の野次馬根性の前には形無しだ”
“植え込みの間から覗けるで──ホンマや、スゴい人だかり!”
“……遠巻きに見守ってますね。いま出て行くと目立ちますよ。どこかに隠れてる狙撃手に撃たれる可能性も”
“柳瀬さんの車もここまでは無理じゃない? 入って来れても、ヘタに出て行ったら私ら注目を浴びてまうわ”
“まかせてくれ。出待ちの追っかけファンを振り切るのには慣れてる”
“……不慣れな者もおりますので”
“ご町内の皆様、毎度お騒がせしております。奈良県警察でございます〜”
“来た来た!”
“──あの声、もしかして柳瀬さん?”
“オフ・コース”
“だっさー。廃品回収やないんやから。しかも警察を騙(かた)るなんて”
“俺の入れ知恵だ。非常時なんだから許されるさ”
“……接近してきますね”
“──ガス爆発による火災が発生しております。ガス漏れはまだ続いておりますので、皆さんくれぐれも現場には近づかないよう願います。ハイハイそこのボク、前に出ると危ないよ。ショッカーの怪人にさらわれちゃってもしらないよ〜”
“あのバカ、デパート屋上でやってたヒーローショーの癖がいつまでも抜けないな”
“見えた。──ちょっとぉ、パトランプ回してるよ!”
“非常時だから……”
“……でもさすが元役者さんです。よく通る声ですね。うらやましい”
“柳瀬、そのまま植栽の前に横付けするんだ。──そうそうそこで停車!”
“……二階が”
“どうしたの。──アブない!”



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