この人はどうしてこんなに淡々としているのだろう。萠黄はあぜんとするどころか、感動さえ覚えた。
「……銃で撃たれるのも、ガス爆発の只中にいるのも、さして違いはありませんから」
伊里江が言うと、そんなものかなと思えてくるから不思議だ。いったいこの人の感情回路はどうなっているんだろう。恐怖を感じないのだろうか。自分には無理だ。『私が敵を引きつけるから』などと勢いで大見得を切った萠黄は、自分が恥ずかしくなった。
「まあ、この世界の事情をよく知ってるお前さんがそこまで言うのなら……」
揣摩も何か発言しなければと思ったらしいが、考えがまとまらず、語尾が消えてしまった。
「……時間がありません。あなたたちは急いで安全な場所に隠れてください。救助隊が来たり、周囲が騒がしくなるまで出て来てはいけませんよ」
「あなたは……どうするの?」むんが訊ねる。
「……むざむざ火傷を負うつもりはありません。頃合いを見計らって逃げますので」
三人が隠れていた和室の出入口には大きな座敷机が立て掛けてある。気休めだが、延焼の火の手が伸びてきた時の防火扉の代わりだ。
座敷机の裏に背中をもたせかけた揣摩が、ダイニングの方角に聞き耳を立てる。むんも萠黄も彼にならって、畳の上に正座したまま神経を集中させた。
ぱちぱちと火の爆ぜる音が遠く聞こえる。
「さっきのドーンっていう音」揣摩がささやく。「俺、心臓が止まるかと思ったよ。コックを回してから五分ぐらいしか経ってないのに、あんなに派手な音がするなんて予想してなかったな。家全体がグラグラッと来ただろう? あれには肝を冷やしたよ」
「ガラスの割れる音もスゴかった」と萠黄。
「ドラマならまさに《良い子は真似しないでね》の世界だな」揣摩は軽口を叩きながらも顔付きはいたって真剣だ。「さてと、この机を動かすとするか」
漆塗りの座敷机は大変重く、揣摩がいなければ立て掛けることもできなかっただろう。
和室唯一の出入口は、真っ白な和紙を貼った障子が二枚。ほんの少し、焦げ痕が見られる程度である。揣摩は音もなくそれを開くと廊下に出た。ふたりも後に続く。
廊下は途中でL字型に曲がっている。角を折れた三人は、その場に立ちすくんだ。
廊下の壁は激しく歪み、ひび割れ、あちこちに黒い焦げ痕があった。足許には木片や割れたガラスなどが散乱し、フローリングの床はほぼすべてのタイルが剥がれ、あるいは反り返っていた。三人は靴を履いたままだったので、そのまま廊下を進んで行った。
「エリーさん!」
むんが真っ先に伊里江を発見した。彼はダイニングと廊下の境に座り込んでいた。
萠黄にはそれが伊里江だとすぐには判らなかった。Tシャツは燃え落ちて首の周囲にしか残っておらず、ジーンズも腰回りを残すだけ。露出した肌は煤で真っ黒で、これが火事場なら捨てられたマネキン人形と思ったかもしれない。
「おい、エリー!」
揣摩も走り寄ると、伊里江に恐る恐る手を触れた。するとまるでスイッチが入ったように伊里江の肩がピクッと反応し、真っ黒な顔の中で両目が開いた。
「……大丈夫です。生きてます。……早く逃げてくださいよ」
むんはポケットから取り出したハンカチで伊里江の顔を拭った。不思議なことに火傷の跡はまったくなかった。
「あなたを置いて行けるわけないでしょ」
むんは伊里江の頬や首筋を拭い続ける。萠黄も膝をついて伊里江の尖った顎を見つめていた。
「それにしても」揣摩は口笛をヒューッと吹いた。「台風一過って眺めだな」
ダイニングは、小型台風がいかんなく猛威を振るったとでもいうような様相を呈していた。
(でも──)
「ガス爆発って、こんなになるものか?」
萠黄の疑問を揣摩が代弁した。
窓ガラスはことごとく吹き飛び、ひっくりかえった椅子やテーブルは瓦礫となって部屋の隅で煙を上げている。カーテンもカーペットもまだ燃えている。しかし天井があらかたなくなって空に浮かんだ雲まで見えるのには三人とも声を失った。二階が消えていたのだ。
壁も半分ほどがむしりとられており、鉄骨が露出している。シューッという音が続いているのは、依然ガスが漏れ続けているからだろう。においはしない。壁がなくなって風通しが良くなったせいだ。
「あそこ──」
むんが鉄骨の一本を指差した。東側のテラスに面した壁の中にあったと思われる。それがロウ細工のように途中でぐにゃりと曲がっていた。
ガシャッ。
鉄骨の向こうに人影が立ち上がった。迷彩服だ。
「しまった!」
揣摩はあわてて背中の拳銃──伊里江がもっていた銃だ──に手をやったが、
「動くな」
扉のなくなった勝手口に姿を現した別の迷彩服が低い声で揣摩を制した。大きな男だ。重そうなマシンガンを片手で構えながら近づいてくる。
万事休す──。萠黄はまぶたを閉じた。 |