「変わった人やね」
むんは自分のバッグを背負いながら言った。彼女のバッグは側面のポケットからショルダーベルトを出すとリュックになるという優れものだ。
「そんな言葉、柳瀬には聞かせないでくれよ」揣摩が携帯を仕舞いながら答える。「ああ見えて彼は傷つきやすいんだ。昔、特撮もののヒーローをやってたことがあって、それが彼の唯一の自慢でね。今でも大仕事をする際には当時のことを思い出しながら気合いを入れるんだ。彼一流のスタイルなんだよ」
萠黄はベンツの運転席にいた柳瀬を思い出そうとしたが、彼の後頭部しか思い出せなかった。柳瀬の頭の中にはきっとヒーローを演じていた頃の晴れ姿が焼き付いているのだろう。それが過去の栄光だとしても彼は何度も頭の中で再生することで、現実を前向きに生きる糧にしている。素直にうらやましいと思う。自分には今のところ取り柄も何もない。
「おーしそれじゃ急いで、逃げる計画を立てよう」
揣摩は壁に貼ってある住宅会社のポスターをはがすと、裏向けにしてテーブルの上に広げた。そしてペンスタンドからマジックペンを拝借すると、周辺の見取り図を手早く描き始めた。
「ここが我々のいるモデルハウスだ。西側は狭い庭をはさんですぐ道路に面している。普通に出て行くならこちらだが一番危険でもあるだろう。
南側は一段下がった土地で、別のモデルハウスが建っている。玄関を出るとその家の横を通って、近鉄線に平行して走る道路に突き当たる。ちょっと遠いな。
東側は園芸会社らしくて壁が立ち塞がっていて、突破するのはまず無理だ。
したがって北側、これが我々の進む方向かと思う」
揣摩は絵を描く手を休めず、てきぱきと説明していく。昨夜、買い出しの時に辺りを観察していたのだろう。さすがダ・ヴィンチのリーダーだけのことはある。
「北側は民家が建っている。丈の高い植え込みが並んでいたので中はうかがえなかったが、庭のある和風家屋だ。さいわいこの隣家との段差は低く、植え込み以外の塀はなかったので逃げ込むにはもってこいだ」
揣摩はマジックペンで北側の土地の真ん中に太い矢印を描いた。矢の先端は隣家を貫いて、その先の道路に至っている。
「ご異議ある? エンジェルたち」
むんも萠黄も首を横に振った。伊里江は他人事のような顔をして絵に見入っている。
「よし、すぐ北に移動だ」
四人は手に手に荷物を持つと、リビングを後にした。
「エリー、変な真似はするなよ」揣摩が念を押す。
「しませんよ」伊里江は表情の乏しい声で答えた。
奈良市内某所に停められた装甲車の中。
暗い室内に、壁にかけられた液晶画面だけが自己主張している。まるで夜道の自動販売機のように。
俺は夜が好きだ。真っ暗な夜が好きだ。身体が溶けていき、夜と同化できるから好きだ。だから子供の頃は夜空ばかり眺めていた。俺の育った田舎は夜空が綺麗だった。何時間も草の上に寝転がって眺めては、いつかあの漆黒の宇宙に行くんだと心に決めていた。宇宙飛行士になるのが夢だった。なのに。
《真崎隊長代理、見えてますか? 赤いカーソルの付いた家が、光嶋萠黄の携帯の発信元です》
スピーカーを通した声が叫ぶ。
「ああよく見える。だがもういい。ヘリを遠くへやれ。朝っぱらから騒々しい音を立てていては、またどんな邪魔が入るか判らん」
そう言うと、真崎は手の中のマイクを口に持っていき、
「現在、張り付いているのは何名だ?」
《二名です》別の声が答える。
「よし、先行の二名に告ぐ。あと十名が五分後に到着する。それまで監視を怠るな。屋内から出ようとする者がいたら、例外を認めず撃て」
萠黄と伊里江は、ダイニングテーブルの脇で佇んでいた。むんは椅子に腰掛けている。三人の目は揣摩の背中に注がれていた。揣摩は勝手口に降りて、扉の中央に穿たれた覗き穴から外の様子をうかがっている。
北向きの窓は朝の光で満ちていた。窓ガラスは一面に緑色を映していた。隣家の植え込みだろう。この辺りは南から北に向けて昇り斜面になっている。当然段差がある。逃げ足以外の体力が要りそうだなあと萠黄はため息をついた。
むんが同じようにため息をついた。萠黄は彼女を見た。むんも萠黄を見て力のない微笑を浮かべた。
「疲れた?」と萠黄は訊ねた。
「うん、明け方まで寝つかれへんかってん」
むんは動きやすいように長い髪を後ろで束ねていた。リスの刺繍(ししゅう)をあしらったお気に入りの髪留めを付けている。彼女のPAIに似てなくもない。
髪を上げたむんの頬には疲れが色濃く見てとれた。伊里江の語った真相がむんに落とした影は、萠黄の比ではないようだ。
萠黄は背中からむんの首に両手を回した。
「むん、ここを出たらアイスクリームをイヤって言うほど食べよ」
「うん」
──ガチャッ。
揣摩が内鍵を外した。ノブを回して扉をそーっと開き、隙間から顔を覗かせる。
「大丈夫そうだ。俺が先に行くから付いてきてくれ」
そう言って一歩足を踏み出したとき。
ボスッ、ボスッ。
鈍い音が起こり、扉の内側に穴があいた。
揣摩は、うわっと叫んでその場にうずくまった。 |