Jamais Vu
-80-

脱出の朝
(3)

 萠黄は床に着いた膝を上げ、出窓のそばに近寄った。まだ新品同様のレースのカーテンに手をやり、隙間から外の様子をうかがう。
 目の前にもう一軒、別のモデルハウスが建っている。近鉄の線路はそのまた向こう。電車はもう動いてるのだろうか。朝陽を浴びた駅舎の屋根がかろうじて見えるだけで何とも言えなかった。
 窓から見渡せる範囲には、動くものの姿はない。
「ホンマに敵が近くまで来てるの?」
《君がアクセスしたのが七分前。早ければ数分以内に対面できると思うよ》
 その時、萠黄の耳がヘリコプターの羽ばたく音を聞いた。パタパタパタパタパタパタ。
「判った」
 萠黄は決断した。
 壁際に近寄ると、転がっていた携帯を拾い上げた。キングギドラは《幸運を祈ってるよ》と言って携帯の中に消えた。
 時刻は五時五十分。
 萠黄はリュックを背負うと、階段を飛ぶように駆け下りた。
「みんな起きて!」
 萠黄は大声で呼びかけた。むんががばっと跳ね起きた。
「どないしたん?」
「敵が来る」
「敵が?」
 むんはすぐに身繕いを始めた。さすがに俊敏だ。伊里江も身体を起こそうとしている。しかし彼の手足は昨夜から縛られたままだ。
「うーん、まだ早いよー。営業は九時からだって」
 揣摩太郎は寝ぼけた声を返した。
「ホンマやねんて。お願いやから起きてください!」
 嘆願する萠黄の両肩を、むんが抑える。
「萠黄、説明してよ。どうして敵が襲ってくるって判ったん?」
「わたしが悪いねん。わたしが携帯からセンターに接続したから、それを敵がGPS衛星を使(つこ)て、わたしらのいる場所を特定されてん」
「えーっ」それを聞いて揣摩も目が覚めたようだ。
「……ありえますね」横から伊里江が割り込んだ。「敵がGPS衛星を押さえているとしたら可能です」
「お前の言ってたことと矛盾するじゃんかよ」揣摩がすかさず口を挟む。「ハッキングできる天才は自分と萠黄さんぐらいなものだって豪語してたのは誰だっけ?」
 伊里江は一瞬目を閉じたが、すぐに開くと、
「……そうか、政府が敵であるならば、今やこの国のあらゆる機関はすべて敵側と考えるのが妥当でしょう。ならばGPS衛星を敵側に押さえられたとしても不思議はありません。ゆえにわざわざハッキングする必要もないわけです。敵は衛星から堂々と個人情報を引き出せるのですから」
「げっ、それじゃあ携帯が使えないじゃないか」
「……迂闊(うかつ)でした。もっと早く気づくべきだった」
 感情の乏しい伊里江が歯ぎしりした。手が自由だったら自分の頭を殴るぐらいはしたかもしれない。
「……でも揣摩さんが心配する必要は全くありませんよ。ターゲットは萠黄さんだけですから」
「………」
 リビングに沈黙が降りた。
 狙われているのは萠黄ただひとり。それは全員が知っていて、触れずにいた事実だ。
「それは」揣摩が両手でテーブルを叩いた。「それはそうだけどさ、お前だってリアルとかだろ? バレたらやっぱり狙われるじゃないか」
「……いずれは。でも今は大丈夫です」
「よーし、じゃあ俺が迷彩服どもに突き出してやる。お前のTシャツにデッカく『アイム・リアル』って書いてな」
「やめなさい。喧嘩してる場合やないでしょう」
 むんが揣摩の鼻息を押しとどめた。
「あ、ヘリが──」
 萠黄のつぶやきに三人は耳をすました。パタパタパタパタパタパタ。きわめて近い。ヘリは旋回モードに入っていて、この辺りを上空から監視しているのだ。
「逃げよう」
 むんは言うと、床に両膝を着いて伊里江の手足を縛ってあるタオルを解きにかかった。揣摩は不服そうだったが、あえて何も言わず、テラスに向いたサッシを開いた。雨戸を細めに開けて外を盗み見ている。
 伊里江を解き終わったむんは揣摩の後ろから外をうかがった。萠黄もしゃがんでむんにならう。
「植木が邪魔だな。取り囲まれてても全然見えないし、手榴弾でも一発放り込まれりゃおしまいだぞ」と揣摩。
「悪い方に考えないこと。障害物があったらわたしらも逃げやすいし」とむんが言う。
「逃げるって、どこへ」
「それは──」
 誰にも判らない。彼らは途方に暮れた。
「みんな、先に逃げて」萠黄が言った。「わたしが敵を引きつけておくから。ほら、わたしって不死身やし」
 揣摩もむんも目を丸くして萠黄を見た。
「スーパーマンじゃあるまいし、そりゃ無理だろう」
「どうなの?」むんが伊里江に訊ねる。
「……誇大広告でしょうね」彼は真顔で答える。
「とにかくここにいてはダメなんだ」揣摩が叫ぶ。「せめて隣の家に移動しよう」
 全員が賛成した。と、その時、
《お取り込み中ごめんなさ〜い。お電話よ〜》
 ウランの背伸びした子供声が割り込んだ。
「誰からだ?」
 揣摩がポケットから携帯を取り出した。
《柳瀬サン》
「つないでくれ」
《──ああ、タロちゃん。娑婆(シャバ)の空気って美味(おい)し〜》
 液晶画面の上に、萠黄も見覚えのある人間の頭部が現れた。揣摩のベンツを運転していたマネージャーだ。
「柳瀬、警察署から出られたのか?」揣摩が問う。
《そう。ようやく解放されたのよー。無罪放免、無事釈放。いま署の駐車場にいるんだけど、警察の皆さんムチャクチャ忙しそう。私なんかに関わってられないって口ぶりだったー》
「よかった」揣摩はホッとした声を出した。「柳瀬、出たばかりで申し訳ないけど、大至急迎えにきてくれ。悪い連中に追われてるんだ」
 揣摩は現在地を柳瀬に説明した。
《絶体絶命?》
「ああ、人生これ以上ないってくらい絶体絶命だ」
《私の助けが必要?》
「そうだ。もはや君だけが頼りだ」
《了解! すぐ駆けつけるー。待っててー》
 テンションの高い電話は、不思議な余韻を残して切れた。



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