Jamais Vu
-77-

四十五歳の多感
(28)

 ふたりは抱き合って互いの無事を喜び合った。
 どうやってあの瀕死の状態から復活することができたのか。雛田は清香が魔法を使ったのだと言い、清香は“鏡の国”の法則に自分が受け入れられたのだと言った。どちらも自分の主張を信じているわけではなかったが、今はとにかく生きていることを感謝し、生きていることを無償で喜んでくれる相手が目の前にいることに感謝した。
 雛田は、自らの最期を覚悟した時、心の中でさんざん格好をつけ、能書きを並べていたので、いざ助かってみると気恥ずかしさに消え入る思いがしていた。あしたのジョーが最終回の後、ニコニコと遊園地へ遊びに行ったりするか? 山に帰ったアルプスの少女ハイジが、物にあふれたフランクフルトを懐かしがったりするか?(そんな続編があったら許せるか?)……つまりは、ええと、そういうことなのだ。
 恥ずかしついでに、彼は言いたいことを言ってしまうことにした。
「なあ、清香ちゃん、話しておきたいことがあるんだ」
「しっ!」
 清香の手が雛田の口を塞いだ。するとはるか頭上から、人声や足音が聞こえてきた。亡くなった刑事の名を呼んでいる。
「……ひとまず逃げましょう」
「そうだな、そうしよう」
 雛田はまた、父の名乗りをするチャンスを逸した。

 清香は先頭に立って、谷川を上流へと登っていった。途中、巨岩が行く手を阻んだり、つるつる滑る苔(こけ)が密集していたりと足場に苦労したが、彼女は垂れ下がるツタや木の根を使って身軽に越えていった。雛田も見よう見まねで必死に付いていく。
 目指すはグラストンベリー・スタジオだ。
「あぶなくないかな? 僕は警察をだまし討ちにしたんだ。見つかったら間違いなく逮捕だよ」
「まあ、まかせといて」
 清香は小さな支流に進路を取り、手頃な場所で岩の上にひょいと飛び乗ると、懸垂(けんすい)の要領で崖の上に這い上がった。
「やれやれ」
 雛田も重い身体にムチ打って、彼女のあとに続いた。
 清香は道のない斜面をどんどん進む。まるで自宅の庭を散歩しているような足取りだ。
 グラストンベリー・スタジオはもともと彼女の母親がプライベート用として建設したスタジオが前身になっている。この辺の地形に勘が働くのも、自然児清香としてはごくごく当たり前のことなのだろう。

 夕暮れが近づいた頃、スタジオは突然目の前に現れた。
「見て。パトカーがないわ」
 そのとおりだった。雛田が幽閉した警官たちは、どうにかして外に出たらしい。
 清香と雛田は忍び足で宿泊棟に近づくと、裏口の扉を開けて屋内に侵入した。
「清香さんじゃないですか。ご無事でしたか」
 厨房にいた結城氏が驚きの声を上げた。結城氏の奥さんや息子さん(コック見習いらしい)も出てきて、みんな清香の無事を涙を流さんばかりに喜んだ。
 結城氏によれば、備品室の警官たちは扉に向かって銃弾を発砲し、強引に蹴破ると、自分たちの失点を取り戻すべく、あわててパトカーで行ってしまったのだという。

 雛田はひとり、スタジオのコントロールルームに入り、問題の備品室に足を踏み入れた。ディスクや磁気テープなどが床に散乱している。
「カバ松、いるか?」
 小声で呼びかけると、
「うぉーい、ここだここだ」返事はアングル棚と床のあいだから返ってきた。ピンクの尻尾がかろうじて見える。「待ちくたびれたぞ。まったく生きた心地がしなかったぜ」
「PAIがいっぱしの口をきくんじゃねえや」
 それでもカバ松のおかげで清香を奪還できたのは事実だ。雛田は不本意ながらも、礼の言葉を口にした。
「言葉の礼なんぞ、屁の突っ張りにもならん。それより腹が減った。早いとこ充電してくれ」
 口調はあくまで影松豊そのものだった。

「またきっと帰ってこられますよね?」
 車窓越しに、結城夫妻と清香はお互いに名残を惜しんだ。雛田は気が気ではない。警官たちが今にも戻ってくるかもしれないのだ。それとなく清香をせかすと夫妻は不承不承、彼女の手を離した。
 雛田と清香はパジェロミニに乗り込んでいた。ハンドルは結城夫妻の息子が握っている。
 清香が逃亡したことを知れば警察は彼女の行方を追うだろう。駐車場からレガシィが消えていれば手配書がまわるかもしれない。それを考えれば愛車はここに残していくしかない。
「ご安心ください。お車もアルパも責任を持ってお預かりしますから」
 結城氏は快く愛用品の管理を引き受けてくれた。
 パジェロは発進した。そのまま裏道の入口へと進む。
「げっ! あの道は遠慮したいな。まともに走れたもんじゃないし、さっきの場所に出てしまうぞ」
 清香はそれを聞いて、くすくすと笑った。
「おじさま、きっと道を間違えたのよ」
「まさか!? 真っすぐ降りてったんだぞ」
 パジェロは裏道に入り、百メートルほど行ったところで、九十度左に折れた。
「そ、そんな──」
「この時期は葉が茂っていて、ちょっと判りづらいんです」大学生の息子はにっこりと微笑む。
「でも間違えてくれたせいで助けられたんだものね」
 清香はにっこり笑った。雛田はこれまでのツキのなさは、この日のために貯金されていたんじゃないかと思った。そうに違いない。それでこそ人生だ。
 路面はなだらかで、車体は大して弾むこともなく樹々の間をゆっくりと降りていく。
「停めて」清香が言った。
 そこは小さな丘で、ぐるりと遠景を一望することができた。清香は乗せてきた砂袋を抱えると地面に下ろす。雛田は結城氏に借りたスコップで、適度な深さに地面を掘り、砂袋を丁重に穴の中へ収めた。
 埋め直すと雛田はコブシ大の石を上に置いた。石は夕陽を浴びて燃え上がり、彼にエアーズロックを連想させた。
 ふたりは無言で手を合わせた。結城氏の息子は何も訊かずに、じっと待っていた。

 陽がとっぷりと暮れてしまう直前、パジェロは街中に到着した。そのまま西へと向かい、清香の実家のある穂高町に入った。
 ここでふたりは清香の母、碧の車に乗り換えるつもりだったが、結城氏の息子は予想外の提案を申し入れた。自分の車をそのまま乗って行ってくれていいというのだ。
「逃げるなら足のつかない第三者の車がいいんでしょ? 僕は松ちゃんの、いえ清香さんの大ファンですから、お役に立てるのなら」
 清香が感謝を込めて彼をハグした。息子はあられもないほど顔を朱に染めた。
 手を振ってパジェロを見送る息子を残し、清香と雛田は再び車を発進させた。すでに時刻は午後八時をまわっていた。
「結城さん一家には足を向けて眠れないな」
「春先から秋口まで、ずっとスタジオにいてくださるの。人当たりが良くって居心地がいいから、レコーディングの予定がなくても、ペンション代わりに宿泊する人がいるくらいよ」
 雛田はうなずく。
「エンジニアやらスタッフの人間までいなくなったのに、よくぞ残ってくれていたものだね」
「携帯を使ってくれないのが不便なんだけどね」
 ──ん? 携帯を使わない?
 雛田は何かひっかかるものを感じたが、それが何なのかは判らなかった。
 ダッシュボードでは、コネクタに差し込まれた影松の携帯が充電中である。カバ松が舌なめずりしながら満足そうな表情で電気を食っている。
 人間用の食料は、結城夫人が急いでこしらえてくれたおにぎりが後部座席に積んである。おかげでコンビニのカメラに映ったりせずに済むわけだ。
「お客様、どちらまで?」
 清香が妙にうきうきした声で訊ねる。
「そうだな……。おい、カバ松、お前はどう思う?」
 ピンクのカバは愛らしげに口を尖らせて見せた。
《フュウ〜〜〜ン、ウン》

〈第五章 おわり〉


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