天上から一筋の光が差し込んだ。
雛田の身体は、まるで神の祝福を受けたようにまばゆく光り輝いた。首筋から舞い上がる砂の一粒一粒が真珠のようにきらめき、彼はその中に四十五年にわたる人生の一コマ一コマを覗き見ることができた。
同じ志を抱いて上京した影松豊。彼と共に過ごしたカゲヒナタとしての激烈な日々。そんな中で唯一の甘い思い出を作ってくれた碧。自分の人生はこのふたりとの出逢いがすべてだったと言っていい。
──そして、清香。
君の父親として過ごせたのは、たったの数時間だったけど、いまわの際に貴重な機会を与えてくれた神に……いやカゲに感謝したい。
清香は僕と碧だけの子供ではない。カゲ。おまえと三人の子なのだ。
清香、そんなに泣かなくてもいい。僕は苦しんだりはしていないから。もう少し君の顔を見ていたかったけど、だんだん目がかすんできたよ。
こんなところに君を置いていく僕を許してほしい。
《怪我だけはするなよ!》
カゲの最期の言葉を思い出す。すまん。
でも僕は限界を超えるぐらいがんばったよ。どうか勘弁してくれ。
カゲの言葉、彼はいつも僕を励ましてくれた。そういやカゲヒナタの全盛期、アイツは何度も褒めてくれたな。
《まったくお前の話芸だけは予測不能だよ。いつかその笑いが世界を救ったりするんじゃないのか?》
ははは。笑いや世界はともかく、娘を救うことはできたんだから人生の締めとしてはまずまずだろう。
身体が軽くなってきた。周囲の空気が暖かみを増す。いよいよお迎えが来たらしい。
中途半端だったけど、そんなに悪くない人生だった。
さよなら。
どーも、ありがとうございました〜〜〜。
雛田の体重を支えきれず、清香は折り重なるように水の上に倒れた。飛び散る砂は谷間を吹き抜ける風にあおられて、渦を巻きながら拡散していく。
彼女はそれでも雛田を抱きかかえたまま、徐々に形を失っていく彼の首筋を押さえ続けていた。
「ダメ、散っちゃダメー!」
清香は目を閉じて、必死に念じた。神様お願いです。お父さんばかりか、雛田おじさままでわたしから奪うようなことをしないでください。
念じながら、いつしか清香はメロディーを口ずさんでいた。ステージの上でいつもラストソングに選んでいる曲だ。
彼女の腕は大切なアルパを奏でるように雛田を抱いた。指先は、コンサートの最中ならいつもそうであるように心地よい熱を帯び始めた。
清香が歌っているあいだ、雷鳴は一度も鳴らなかった。
灰色の雲の底が破れ、とうとう雨が降りだした。
雨はやがて激しさを増し、折からの強風と相まって、軽井沢を洗濯機に放り込んだ衣類のように翻弄した。同時に、漂っていた不吉な暗い翳(かげ)をきれいに洗い流し、三時間後、再び陽光を浴びた草木は、何ごともなかったように光合成を再開した。
一枚の葉をつたった水滴が、谷底にいる清香の頬を叩いた。彼女は眠りの森の美女のように、百年の眠りから目覚めた心持ちでまぶたを開いた。
せり出した下草のわずかな隙間から、太陽の陽射しが彼女の瞳を射ている。もう正午なのだ。
増水した谷川の水は、横たわる彼女の胸の辺りにまで迫っていた。
清香はゆっくりと身体を起こした。しかし腹の上に不自然な重みを感じ、川底についた膝を滑らせた。彼女にのしかかっていた物体ははずみでずり落ち、そのまま水の中に没した。
………
「ぶはぁーーーっ」
水面から飛び出した雛田は、口や鼻や耳から勢いよく水を吐き出した。
「し、死ぬかと思った!」
「おじさまっ!?」清香が目を見張る。
「あれ……? 僕は──死んだんじゃ?」
自分の首筋に手を当ててみる。ひりつく痛みがあり、腫れてはいるが、ちゃんと皮膚が付いている。
あわてて周囲を見渡し、四駆の残ったほうのバックミラーを発見すると、立ち上がって水の中を駆け寄り、首筋を鏡に映してみた。
意外なものがそこにあった。手の型だった。
「これは──」驚きの顔を清香に向ける。「君の手なのかい?」
清香も戸惑いと驚きの入り交じった顔で、自分の手のひらへと視線を落とす。
彼女の手のひらは、まるで一千回の拍手をしたあとのように真っ赤に腫れ上がっていた。 |