あらん限りの声が雛田の喉からほとばしり出た。黒い水面はみるみる近づき、激しい衝撃と共に、彼の身体を鯨のようにまるごと飲み込んだ。
ざぶーん、ごぼごぼごぼ。
周囲は真っ暗闇。何も見えず、呼吸もできない。恐怖にとらわれた彼はやみくもに手足をばたつかせた。しかし彼を押し包んだ水は身体にねっとりとへばりつき、しだいに彼の自由を奪って行った。
(ここまでか──!)
もがき疲れ、意識がスーッと遠ざかっていこうとした、その時、
──おじさまーっ。じさまーっ。さまー。まー。
清香の声が幾重にも反響して彼の耳に届いた。
(清香! 無事だったのか! どこにいる、どこだ?)
「どこだぁぁぁ!」
雛田は自分の声で目を覚ました。彼の自由を奪っていたのは運転席いっぱいに広がったエアバッグだった。
「おじさまーっ!」
清香の声は夢ではなかった。雛田は声のする方へと身体をねじった。
「あたたたっ」
激痛が全身を駆け抜ける。エアバッグがあったとはいえ、かなりの衝撃を受けたようだ。じっと痛みの収まるのを待つ。しかし、おかげで頭がハッキリしてきた。
目を開いた雛田は、周囲の状況にしばし呆然とした。
四駆は鼻面を真下にして、谷底に突き刺さっていた。辺りはさほど暗くない。谷底を流れる水の量も、足先が浸る程度の浅いものだった。
彼はシートベルトを外し、半ば外れそうなドアを蹴破ると、エアバッグと座席の間からどうにか這い出した。
ジャブンと水滴が跳ねる。安物の革靴を通して、流れる水の冷たさが伝わってくる。
頭上を見上げる。数十メートルも落ちたような気がしたが、実際の落差は五メートルほどだった。
彼は車の水に使っている辺りを見た。そこに四駆の下敷きになって横たわる田村刑事の変わり果てた姿があった。おそらく即死だったろう、すでに全身が砂の塊と化しており、半分以上が水の流れに崩され、流されていた。
雛田は手を合わせようとして、ハッとなった。もうひとりの刑事はどうした?
「おじさまっ、無事ー?」
頭上から清香の声が降ってきた。見上げると彼女は蔓草をロープ代わりに使いながら、鋭い斜面を器用に降りてくる。さすがはこの長野で、男の子顔負けの自然児として育っただけのことはある。
雛田はあわてて声を返した。
「来ちゃいけない。もうひとりの刑事が──」
「俺のことか?」
くぐもった声がどこからともなく返ってきた。雛田はぎょっとして身構えると、車を背に油断なく辺りに目を配った。
「おじさま、おじさま」
清香が小声で呼ぶ。リアバンパーに足が届くところまで降りてきた彼女は、蔓草を片手に、安定を確保すると、もう一方の手で足許を指差した。雛田からは反対側、車の向こう側。そこに成瀬がいるらしい。
右のバックミラーはすでに跡形もなかったが、左のそれは健在だった。雛田は背伸びして覗き込む。
いた。成瀬刑事は手足を蔓草に絡ませ、逆さ吊りの状態でミラーを睨み返していた。
雛田は車の陰を出ると、彼の前に立ちはだかった。
毒のある言葉をさんざん投げ散らしていた刑事は、見るも無惨な姿をさらしていた。ネクタイはちぎれ、上着は左腕しか残っていない。そして空を向いた左足には──鋭利な切っ先をドス赤く染めた木の枝が貫通していた。
「チクショー、ざまあねえぜ。民間人にこうまでしてやられるとはな」
彼の手に銃はなかった。それどころか、巨大な蜘蛛の巣にひっかかった羽虫のように、彼はまったく身動きができないでいた。
「アンタのせいで長野は──この日本は終わりだ」
吐き捨てるように言い、成瀬はゲホッと吐血した。いつの間にか、雛田の横に降り立っていた清香は、ヒッと小さな悲鳴を上げた。
「いったい何のことを言ってる?」
「……まあいいさ、いずれ判る時が来る。その娘がこの世界に与える災厄の大きさに震え上がるがいいさ」
悪魔のような笑みを浮かべた瞬間、成瀬の身体がズルリと滑り落ちた。太股に刺さった枝の部分から、左足がちぎれたのだ。
「見るな!」雛田は清香の前に手をかざしたが、彼女はしっかりと見ていた。
「大丈夫よ……大丈夫」
真っ青な顔をしつつ、清香は気丈に目を逸らさない。
枝の上に取り残された左足も、やがて成瀬の後を追うように落ちてきた。ちぎれた箇所から砂煙が舞い上がる。
「へへ、砂になると痛みは感じないんだな。神様も粋な計らいをするもんだ」
成瀬は強がるが、川に浸った身体から少しずつ砂粒が流れ出している。
「あばよ。あの世で待ってるぜ……」
やがて彼の肉体は、五分と経たないうちにこの世から消え失せた。
雛田と清香はまじろぎもせず、浅い川底を見つめていた。そこには銀色の手錠が鈍い光を放ちながら沈んでいた。
「……お父さんも、あんな風に砂になったのね」
「──ああ」
頭上がチカチカと光り、激しい雷鳴が轟いた。
(ひとまずピンチを脱したか)
安堵の吐息をつくと、雛田はドッと疲れを感じた。
「怪我はなかったかい?」
「ええ、わたしは平気。おじさまは?」
「関節があちこち痛いけど、なんとか……」
首筋に手をあてがった雛田は、その感触に違和感を覚え、ぎょっとした。ゆっくりと手のひらを開くと、そこには血にまみれた砂があった。
「ワ……ワ……!」
まさに銃創による傷。幸運にも避けることができたと思っていたのに、成瀬の放った銃弾は彼の首をえぐるようにかすめていたのだ。
「おじさま、どうしたの? ……キャッ!」
事態に気づいた清香も悲鳴を上げた。
首筋の傷はますます広がり、砂になった皮膚がこぼれていく。手で押さえようと試みても、いっしょに流れる血量も半端ではなく、彼の意識はしだいに遠のき始めた。
(僕はここで死ぬのか?)
姿勢を崩した雛田を抱きとめた清香が叫んでいる。しかし朦朧(もうろう)とした耳では何も聴き取ることができない。
(清香、君に告白することがあるんだ。君の父親は、本当の父親は──)
しかり彼の口はアワアワと無意味な言葉を漏らすばかりだった。
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