Jamais Vu
-73-

四十五歳の多感
(24)

 雛田の革靴がドタドタと床を踏み鳴らす。
 長年の運動不足は、知らず知らず彼の身体から持久力というものを容赦なく削ぎ落としていた。レストランに駆け戻り、建物の外に飛び出そうとしたところで、椅子のひとつに足を引っかけ、勢い余って転倒してしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
 最前からそこに立ち尽くしていたエプロン姿の結城氏が助け起こそうと手を差し出す。
「──平気です。僕には使命があるんです。今しがたできたんです。敵の魔の手から清香を救い出さねばなりません!」
「敵……? ひょっとしてさっき来た警察のかたがたはニセモノですか?」
「いや、そういうわけではないでしょうが……詳しい話は後です。行かせてください」
 雛田は表に飛び出した。
 太陽はすでに灰色の雲に覆い隠されていた。遥か遠くで稲妻が空を斜めに疾駆した。空気のにおいも変化している。雨が近い。
 四駆は静かに彼の帰還を待っていた。
 キーを差し込み、エンジンを始動させる。
「待ってろ、清香」
 アクセルを踏み込み、車は発進する。
 駐車場を出ようとした時、結城氏が車の前に飛び出してきた。
 あわててブレーキを踏む。
「危ないじゃないですか!」
「雛田さん」結城氏は四駆のボンネットに両手を付きながら「あなた、警察の車を追いかけるのでしょう?」
「そ、そうです」
「だったら裏道を行ったほうが速い。舗装されてはいませんが、かなり近道になります!」
 結城氏は正規の道路とは反対側、宿泊棟の先を指差した。
「恩に着ます!」
 雛田はハンドルを右に切ると、わずかに見える樹々の切れ目に向かって四駆を突進させた。

「ここらでいいだろう」
 成瀬が声を掛けると、田村は緩やかにスピードを落とし、道路脇のコブシの木の下に車を止めた。
「田村、毛髪検査の結果は?」
「クロでした。検体を換えて三度検査を行いましたので間違いありません」
 成瀬は軽くため息をつき、清香に顔を向けた。
「お嬢さん、申し訳ないが車を降りていただきたい」
「どうして?」
 清香は訊ねたが、ふたりは答えずにドアを開き、それぞれ地面に降り立った。
 こんな林道の途中でどんな用事があるというのか?
「お嬢さん、ひとつだけ教えてあげましょう」成瀬は胸ポケットから取り出した煙草に火をつけると、おもむろに口を開いた。「我々はね、警察である以前に、長野防衛隊の隊員なんですよ」

(──びっくりした)
 冗談ではない。雛田は本当に心臓が止まるかと思った。
 それは裏道などというものではなく、山道、ケモノ道と言ってもいい代物だった。
 勢い良く飛び込んだものの、落ちていた枯れ木にハンドルを取られて危うく川に落ちそうになったし、高低差の激しい路面は悪路そのもので、スピードを上げることもできない。
(とにかく、四駆で来ていて良かった)
 道にはみ出した無数の枝葉がボディをキイキイと擦る。右を覗けば、いつの間にか川が谷底に変わっている。暗くて底は見えないが、落ちたらひとたまりもなさそうだ。
(とにかく急ぐんだ。奴らが町中に出る前に)
 雛田は必死でハンドルを切り続けた。

「お嬢さんは“リアル”と呼ばれる立場、というか存在なのだそうだ」
「リアル?」
 林道から分け入った細い道を三人は歩いていた。清香を先頭に、田村、成瀬の順で続く。田村は手に銃を構えている。
「難しいことは判らんが、要するにお嬢さんは、長野を今震撼させておる細菌兵器の“保菌者”だという話だ。お嬢さんがさっき荷物を取りに部屋に戻った時、この田村にお嬢さんの部屋に落ちていた髪の毛を数本採取させたんだ。それを我々の検査機に掛けたところ、陽性の反応が出た。つまりお嬢さん、あなたは“歩く細菌兵器”というわけだ」
「そんな! 身に覚えがありません」
 清香は憤慨したが、田村の向ける銃口に背中を押され、しかたなくまた歩き始める。
「覚えはあるだろうが?」成瀬は鼻で笑いながら、内ポケットから携帯を取り出し、録音メモリーの再生ボタンを押した。
《おじさまが来てくれたので、もう大丈夫。……うん、わたしね、鏡の国に迷い込んだみたい。この世界がみんな裏返ってしまったの。信じられないでしょう?》
 清香の顔面が真っ赤に染まり、頭に血が上った。肩を怒らせて振り向くと、
「盗聴したのね。犯罪じゃないの!」
 しかし次の瞬間、背中に悪寒が走った。
「──判ったわ、衛星を使ったのね。携帯からわたしのいる場所を割り出したんでしょ!?」
 成瀬は大げさに頷いてみせた。田村も不敵な笑顔を浮かべつつ、あくまで銃口はそのままだ。
「どうしてそんなこと──」
「だから言ったろう。お嬢さん、あんたは危険人物なんですよ。あんた、自分の目に映る世界の右と左が逆転したんだろ? 今や我が国は静かな非常事態宣言が発令されていて、携帯の会話はすべてコンピュータでリアルタイムに録音、検索、解析がなされている。お嬢さんの場合は“鏡の国”が検索に引っかかったんだよ」
「成瀬さん、もういいでしょう」田村が口を挟んだ。「早いとこ始末しちまいましょうや」



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