通話を終えるのと、清香が小さなリュックを肩にかけて戻ってきたのとが、ほぼ同時だった。
「ワシらはこのまま東京へ行くから、君たちは雛田さんを署の方にお連れしろ」
成瀬が警官らに指示する。警官らは敬礼を返した。
近くで見ると、警官はふたりとも二十代前半といった若造だ。
「雛田さん、いずれまたゆっくりお話ししましょうや」
勝ち誇ったように言うと、ゲーリング成瀬は太鼓腹をゆらゆらさせながら車へと乗り込んだ。彼の隣には清香が神妙に座っている。親衛隊員も運転席に乗り込んだ。
(クソッ、彼女を連行、いや拉致されるがままでいいのか、阻止する方法はないのか!)
フロントウィンドウ越しに、雛田と清香の目が合った。雛田は渋い顔のまま、ウインクして見せた。それをどう受け止めたのか、清香はわずかに頷いてよこした。
「君は後ろの車に乗るんだ」
警官のひとりが雛田の背中を小突いた。
「あっ」と雛田は小さく叫んだ。
「どうした?」と警官。
「荷物をスタジオの中に置いたままなんです。取りに行ってもいいですか? 財布から何から一切合切入ってますもんで」
もちろんウソだ。荷物は全部四駆の中にある。
台詞はカバ松の受け売りのまんまである。
警官はしょうがないなという顔をしたので、雛田はすみませんと頭を下げ、奥へ通じる廊下へと歩き出した。警官たちも付いてくる。その間に清香を乗せた車はUターンすると、森陰の方角へと走り去って行った。
スタジオの重い扉を開いた雛田は「どこかなぁ」とあちこち鞄を探すふりをして、机の間を歩き回った。
逃亡を恐れてか、警官Aは入口に、警官Bは彼のすぐ後ろに張り付いている。
「おかしいなァ。見あたらないなァ」
元々ないものを探しているのだから見つかるはずもない。警官たちがシビレを切らし始める。
「まだか?」
「ハア、どうも」
適当な相づちを打ちながら、雛田は手に持つ携帯を周囲にかざした。
「どうだ?」雛田が小声でささやく。
《んーと、あそこが良さそうだ》とカバ松。
「何をブツブツ言うておる!」と警官B。
「いえ、探し物はここにはないみたいで、勘違いだったようです」
「思い違いやら勘違いやらが多いんだな。ボケてんじゃないのか?」露骨にいらだちを見せる警官A。
ムッとする雛田。しかしそれをこらえつつ、
「たぶん、乗ってきた車の中だと思います」
「……もういい、出ろ!」
そう言って警官たちが背中を向けた瞬間、それを待っていた雛田は、隣室に続く半開きの扉の中に、携帯を放り投げた。
ガコーン、カラカラカラ。
「あん?」振り返る警官A。
「今の音は?」戻ってくる警官B。
《……てくれえ。助けてくれえぇぇぇぇぇ》
ふたりは互いに顔を見合わせた。
《……助けてくださぁぁぁい。影松豊ですぅぅぅ。手足を縛られてココに閉じ込められてるんですぅぅぅ》
「何だと!」「どこだ?」A&B。
《ココですぅぅぅ。扉の中ですぅぅぅ》
(名演技だな、カバ松)
雛田もPAIだと知らなければ、本物の影松がそこにいると思っただろう。
「カゲ、カゲなのか?」
ボーッとしてるわけにはいかない。彼も空気を読んで演技する。
彼が携帯を放り込んだ部屋は、デジタルテープや消耗品、備品などを置いておくための小部屋だった。狭くはないが、組まれたアングル棚がいくつも並んでおり、電灯をつけても奥まで見通すことはできない。
「どこだー」
《一番奥ですぅ》
三人は備品室に足を踏み入れた。
警官たちは腰の拳銃に手を当てながら、へっぴり腰で前に出る。おっかなびっくりという足取りである。
今、ふたりの警官は前にしか注意を払っていない。雛田はスッと身体を動かすと、ふたりの後ろに廻った。そして音を立てず、備品室から出ると、急いで扉を閉めた。
「コラッ、何の真似だ?」警官A。「開けんか!」
「おい、奥には誰もおらんぞ、どういうことだ?」
中からわめき声が聞こえる。雛田はそばにあったモップを取っ手に引っ掛けた。これでしばらくは出てこれまい。
「出せ! 出さんと逮捕する!」
(やれるもんなら)
雛田はきびすを返した。
「今さらあの娘を追いかけても手遅れだぞ!」
コントロールルームを出ようとした雛田は足を止めた。備品室の扉に駆け戻ると、ドンと力いっぱい殴りつけた。
「手遅れとはどういうことだ!?」
しかし中からは沈黙しか返ってこない。
雛田は駆け出した。
急ごう。急がねば清香を乗せた車が遠くへ行ってしまう。どこかで奴らに接触し、彼女を奪還するんだ。
奴ら──警察の手から?
自分は、国家権力に戦いを挑もうとしているのか?
──だが問題は敵が誰か、ではない。守るべきは清香だということなのだ。それだけだ。
そのためにカバ松が囮(おとり)になってくれたんじゃないか。
何としても彼女を危難から救出せねばならない。
四十五歳、雛田義史の大勝負だ。 |