Jamais Vu
-71-

四十五歳の多感
(22)

 清香の声は居並ぶ男たちの耳の間を、鈴の音のように渡っていった。それは張りつめた空気を緩めるには至らなかったが、こめかみに汗を滴らせた雛田の緊張感を少しばかり解きほぐす役割を果たした。
 しばらくたって成瀬刑事が返答した。
「申し上げたように、我々は警視庁から連絡を受けただけなので詳細は──」
「刑事さん、おっしゃいましたよね? 父は意識不明のままだって」と清香は確認の問いを投げる。
「所持品の中に、お嬢さんのことが書かれてあったのかも知れませんな」
「携帯も財布もすべてこちらにあります。さっき雛田さんから貰い受けました」
「………」
「それにわたしがこのスタジオを訪れたのは全くの気まぐれからで、レコード会社には一切連絡していません。友達にも教えていません。唯一伝えたのは父だけで、その連絡メールは携帯の中です。もっとも本人でなければ開くことはできないでしょうけど」
 そういうことか。雛田はようやく合点がいった。
「さあ、そのあたりは何とも」
 成瀬は言葉を濁す。雲行きが怪しくなってきたぞ。
 清香ひとりに戦わせるわけにはいかない。雛田も意を決して加勢の口火を切った。
「ずいぶんアバウトなことですね。早朝に通勤途中のサラリーマンが見つけたとのことですが、するとまだ二、三時間前のことでしかない。最近の警察はずいぶんと人探しが上手いんですね」
 少々口がまわり過ぎたか、成瀬と田村の表情が険悪の度を深める。しかし今さら引き下がれないぞ。
「まあ、ご親切にも警察のかたがわざわざ来てくださったのだから、お礼を申し上げないといけないね」
 と、刑事たちの目を避けて清香に話しかける。その時、雛田は彼女が震えていることに気づいた。彼を掴む腕に爪が食い込んでいる。
(長引かせたくない。そろそろケリをつけよう)
 雛田は軽く咳払いすると、
「刑事さん、私どもに思い違いがあったようです。私は最近ちょっとノイローゼ気味でして……。影松が生きているなら、彼女を連れて、急ぎ東京に向かおうと思います」
 そう言って、清香の腕を引きながら歩き出したが、刑事たちは壁のように立ち塞がったまま動かなかった。
「雛田さん、だからそうはいかないんですよ。清香さんは我々が東京まで護送します」
「その必要はありません」清香が答える。「自分の車がありますから」
「それはダメです」成瀬は即座に否定した。「ここんとこ、長野の治安は良くありません。お嬢さんひとりで行かせるわけにはいきません」
「だから私が連れて──」と雛田が言いかけると、
「アンタ、記憶力ないのか?」田村が吐き捨てるように言った。「アンタには署まで来てもらうっつってんだろうが!」
 若造め、いよいよ親衛隊の顔をむき出しにしやがった。雛田はビクつきながらも睨み返した。
「こらこら、ヤクザみたいに民間人を恫喝(どうかつ)してはいかん。……そんなわけですから、お嬢さんには我々警察が同行して、無事東京までお送りします」
 成瀬は言い終えるや、手を振って警官を呼んだ。これ以上の議論は無用ということらしい。
 雛田は両側からふたりの制服警官に挟まれると、抵抗する気力が萎えていくのを感じた。ここまでか……。
「身の回りのものだけ、お持ちください」
 田村はキザな笑顔で宿泊棟へと清香を促す。彼女は不安な眼差しを雛田に送りながら、イヤイヤ扉を出て行く。
 雛田は唇を噛みながら、それを見送る。
(清香の僕に対する信頼には一点の曇りもない。なんとかあのコの気持ちに報いたいが……)
 しかしどうやって?
 と、その時──。
《ブルルルル》
 雛田の携帯が上着の内ポケットの中で振動した。
「出てもいいですか?」
 携帯を取り出しながら、いかめしい顔の警官に訊ねると、警官は開いた扉でズボンをずり上げている成瀬によろしいですかと伺いを立てた。成瀬は構わん構わんと気のない返事をしながら宿泊棟を見つめている。
 雛田は首を傾げた。重傷の影松が東京で発見されたという情報は明らかにガセだ。そのガセネタに乗って警官たちがわざわざやってきた。彼らの目的はどうやら清香の確保にあるらしい。
 ナゼだ?
 広がる疑惑を抱いたまま、受話口を耳にあてる。
「はい、雛田です」
《俺だ俺だ》
「カ──」
 相手はピンクのカバだった。
《おっと何もしゃべらなくていいぞ。話はずっと聴いていた。まさにピンチだな。ハハハ》
「喜ぶな!」小声でささやく。
《まあそう噛みつくな。俺に考えがある。耳を貸せ》
「あとで返せよ」
 一瞬、往年のカゲヒナタのやりとりが、雛田の脳裏をかすめた。



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