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-69- 四十五歳の多感 (20) |
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「いやーん、カワイイ!」 清香は花のような笑顔を浮かべると、カバに両手を差し伸べた。カバは彼女の手を舐める仕草をする。 「このコ、おじさまのPAI?」 「まさか。……影松のだよ」 「へえー。名前はあるのかな?」 「んーと──“カバ松”だ」 一瞬、カバの両目が寄った。 「フフフ。よろしく、カバ松。でも持ち主がいなくなっちゃったね」 彼女に取り上げられでもしたら事だ。急いで言い足す。 「僕に所有権を譲ってもらったんだ。芸能人の電話番号やアドレスなんかがいっぱい詰まってるからね。なあ、カバ松?」 《フ、フュウ〜ン》 清香が指先でカバの鼻をはじく振りをする。 「そっか。おじさまがお父さんの跡を継いでくれるんだね」 「そこまでは考えてないけど」 雛田は困ったように、言い淀む。 「それより、朝ご飯をいただきにいきましょ。結城さんが用意してくださるって。一応、お父さんの弟だって伝えたわ。ごめんね、説明が面倒だったから」 「いいさ」 雛田は清香に促されて、四駆を後にした。携帯はしっかりポケットに突っ込んで。 食堂は、スタジオの外見に似つかわしい、採光に富んだ、しゃれた空間を体現していた。朝食はプレーンオムレツにトースト、そして野菜スープ。どれも美味だった。食後のコーヒーがまた泣かせる味で、昨夜影松とふたりで後にしたビル地下のバーを思い出し、不覚にも涙を落としそうになった。 午前九時の時報が、どこかで鳴っている。 「馬鹿に静かだね。今はオフかい?」 「音楽にそんなのないわよ。三日前、わたしがここに来た時はミュージシャンやエンジニアでいっぱいだったのよ。ところが昨日のお昼頃、急にみんな出払っちゃったんですって。理由も告げずに。結城さんが首をひねってたわ」 箒を持った結城氏と話し込んでいたのは、そのことについてらしい。彼によれば、昨日の朝食タイムからスタジオ内の空気はおかしかったという。 「わたしは部屋に籠ってたので知らなかったんだけど」 彼らは一様に押し黙っていたかと思うと、隅に固まってひそひそ話を始めたり、一種異様な雰囲気に包まれていたという。結城氏がどうしたのかと訊ねても、誰ひとり要領を得た返事を返さなかったそうだ。 「なのに正午の時報が鳴った途端、それが合図みたいに全員荷物をまとめると、車に乗って出て行ったんですって」 奇妙な話だ。彼らに身に何が起きたというのだろう。もしや『長野防衛隊』事件に関連してるのか? 判らない。いったいこの信州はどうなっちまったんだ! 清香は淡々と話し続ける。 「だから残ったミュージシャンはわたしだけ。元々、軽井沢の空気が急に吸いたくなったというだけで、予約も入れずに穂高から飛んできたのよ。あわよくばと思ってアルパも車に積んできたけど、到着したら案の定、予約はぎっしり。そりゃそうよね、このグラストンベリーは人気スタジオだから」 「今朝、君はコントロールルームにひとりでいたね?」 清香はため息をつくと、テーブルの上に両腕で輪を作り、その中に顎を埋めた。 「左右逆になった携帯で、どうにかお父さんにメールを打ったら、後はひたすらお父さんの到着だけを待ってた。でも今か今かと待っているとだんだん落ち着かなくなってきて、夜半に部屋から出たの。宿泊棟から表に出たら、月に照らされた駐車場が空っぽに近いのがすぐ判ったわ。どうしたのかなと不審に思って、スタジオを覗いてみたらやっぱり誰もいない。怖いくらいシーンとしてる。でも今さら部屋に戻る気にもなれず、車からアルパを降ろしてスタジオに持ち込んだの。──アルパってね、一応は左右対称形だから弾けないことはなかった。でも何だかしっくりこなくて弾くのを止めちゃった。その後は昨年録音した曲を再生したりして、気分をまぎらせていただけ」 確かにこのスタジオは、昼間見るとすてきな立地条件だが、誰もいない深夜となると、寂しさもひとしおだろう。 あの時、清香の頬には涙の跡があった。思い出すと、その時感じた切なさがよみがえってくる。父性愛? 「たいへんだったな」 他に言葉が見つからず、既に空になっているコーヒーカップを下ろすと、巨大なガラスで仕切られた前庭に目を転じた。芝生の上を千切れ雲の落とす影がゆっくりと動いていく。この分じゃ思ったより早く天気が崩れそうだ。 「おじさま」 「ん?」 「わたし、これからどうすればいいんだろう。……ううん、わたしにできること、何かあるかな」 清香がこれ以上ない真摯な眼差しで見上げる。たじろぎながらも、誠意ある答えをしなければと雛田は自らを叱咤する。 「君のお父さんはね。君を連れて一刻も早くここを脱出しろと言ったんだ」 「そんな! 逃げるなんて──」 「聞きなさい」雛田は手の平を見せながら続ける。「今この長野は危険だ。よく判らないが不穏なことが次々と起こっている。……君が影松の、お父さんの仇を討ちたい気持ちは判らないでもない。僕だって同じだ。でも今はその時期じゃない。ひとまず安全な場所に引いてから後の策を練ろうじゃないか」 「でもどこが安全かなんて──」 「清香!」 ビクッと彼女の肩が硬直した。別人を見るような顔で雛田を見上げている。 「……いいね?」 清香はハッと夢から覚めたように目を瞬(まばた)かせた。 雛田はバツが悪くなり、外の景色に目を移した。すると林の間から白と黒のツートンカラーの車が前触れもなく現れるのが見えた。それがパトカーであることに気づくまで若干の時間を要した。 パトカーに先導されるようにグレーの車が続く。二台は駐車場への道に折れることなく直進し、テラスの脇に停車した。 ドアが開くと、パトカーからふたりの警官が、後ろの車からもふたりの背広が地面に降り立った。 「何ごとだろう。単なる巡回にしては、ずいぶん物々しいな」 「ホントね。何だろう?」 雛田はイヤな胸騒ぎを覚えた。 |
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