Jamais Vu
-67-

四十五歳の多感
(18)

 柄にもない台詞を口にしてしまったことで、元芸人の悲しい性、雛田は思わず冗談で自己フォローしそうになったが、すんでのところで我慢した。そんなことをしたら清香の“夢”を壊しかねない。
 清香は前髪で目の表情を隠したまま、二度ほどぎこちなく頷いた。そして長い足を伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がり、
「わたし、許さない」
 まるで目の前にいる誰かに宣戦布告するような口調で続けた。
「お父さんとおじさまを苦しめた魔法使いを許さない」
 ──!? 
「おじさま、わたし判ったの。魔法使いを退治すれば、かかってる魔法が解ける。そしたらお父さんはきっと元の姿に戻るはずだし、わたしは再び鏡を通り抜けて元の世界に帰れるはずだって」
 雛田は返す言葉がなかった。彼女は、魔法やら鏡の国やら、本気で言っているらしい。父親(と信じている男)の非業な死に直面し、少しでもショックを和らげようと話を合わせた手前、今さら「待ってくれ」とも言えない。いくら人並みはずれた想像力──かつてマスコミが“暴想力”ともてはやした──の持ち主とはいえ、ゴシックホラーのような少女趣味の世界(違うか?)にはさすがに付いていけない。
「それとも、元の世界のお父さんは無事なのかなあ?」
 さらに夢見るように呟く。
 雛田は強引に独り合点した。現実からの逃避、いや彼女なりの現実への対処なのかもしれないと。だとしたら否定するような言動は慎むべきだ。プレッシャーに苛まれ、潰れていったアイドルを何人も見てきた自分だ。空想が傷を癒してくれるならそれもいいじゃないか。今しばらくは──。
 音がしたので、ふたりは首を巡らせた。
 スタジオに隣接する建物の入口から、禿頭にひげ面、しかもエプロン掛けという、ペンションのオーナーを絵に描いたような人物が箒を片手に現れた。雛田とたいして年齢は違わないだろう。こちらに向かってペコリと頭を下げる。清香もおじぎを返し、雛田も合わせて返礼する。とりあえず彼女の保護者然としていたほうがいいだろう。
「スタジオ住み込みの賄いさんよ。結城さん。──そうだ、おじさまも朝食はまだでしょう?」
「ああ、ぺこぺこだ」
「それじゃ頼んでくるね。昨日スタジオからごっそり人がいなくなったので、少ないときの増減は誤差に入れてもらえないから」
 清香は建物に向かって駆けていく。
 ちょうどいい。今のうちにカゲの携帯、主人をなくしたピンクのカバに、訊きたいことをぶつけてやろう。
 雛田は四駆の軋むドアを開けると、ハンドル脇のコネクタに差し込まれたままの携帯に手を伸ばした。
 軽くトンと叩く。ピンクのカバが起動音とも鳴き声ともつかない奇妙な声をあげながら姿を現した。
「さて、何から質問すればいいのやら」
 とにかく清香だ。彼女は、絶対に、間違いなく、確実に、自分の娘か?
 このカバが証拠を持っているというが、デジタルデータによる証明に信頼性はあるのか?
 母親の碧は、なぜ彼女の出生に関わる事実を秘匿したのか?
 整理できないまま、次から次へと疑問が浮かび上がり、頭が混乱し始める。加えて日頃からPAI否定派の看板を掲げている身としては、作りものの動物相手に深刻な質疑応答をおこなうというのは、いささか、かなり、抵抗がある。
(急がないと、あの子が戻ってくるぞ)
 気ばかり焦って、一向に埒が明かない。清香はまだ結城氏と話し込んでいる。距離があるので声までは聞こえない。
 クソッと自らの膝を拳で叩く。
 判っている。事実がはっきりするのが怖いのだ。いきなり二十三歳の娘を持つ父親になるのが怖いのだ。彼女に対してどう振る舞えばいいのか、どう責任を取ればいいのか、すべてに心の準備ができていないのだ。逆に、聞かされる側の彼女も同じ立場に立たされることだろう。彼女自身はどう反応するだろうか。
 そうだ、一番怖いのはそれかもしれない。 
(ああ、煮え切らない奴だな、僕は……)

「この、優柔不断ヤロー」

 ──!? 
 思考が凍りつき、全身の血流が止まった。
「だ、誰だ !?」
 裏返った声で叫ぶと、周囲を見渡した。車内には誰もいない。しかし耳に届いたのは、まぎれもなく自分に向けた言葉だった。しかも声の主は──カゲ?。
《キョロキョロしてるんじゃない。俺はここだ》
 ようやく捉えたの声の源は、ピンクのカバだった。なんでコイツが──。
《ありきたりな反応で時間を無駄にするな。俺だ。影松豊だ。こんなナリだが気にするなよ、相棒》
 ピンクのカバは、カゲ特有のぶっきらぼうな声で話し続ける。雛田は目を丸くしたまま、パクパクと動く大きな口を見つめていた。



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