Jamais Vu
-66-

四十五歳の多感
(17)

 あふれ出る涙を拳で乱暴に拭うと、清香は紅潮した顔を空に向けた。雛田は胸中に渦巻く思いを抱いたまま、彼女の横顔をただ眺めるばかりだった。
 雛田の目に映る清香は、何度も両手で抱き上げた少女ではなく、強固な意志を感じさせる、ひとりの女性だった。すらりとした肢体を派手な色合いのタンクトップとブルージーンズに包み、セミロングの髪を朝の風にそよがせながら物思いにふけるさまは、十代の娘にはないリアリティを感じさせた。
(もう二十二、いや二十三歳なのだから、当たり前といえば当たり前か)
 清香は影松豊の変わり果てた姿を前にして、視線を逸らすことなく見つめ続けている。まるで肉親の無念を受け継ごうとするかのように。見たままを脳裏に刻み込もうとするかのように。
 今まであえて避けていた疑惑が、むくむくと頭をもたげるのを雛田はどうしようもなかった。この子は正真正銘、自分の娘なのか? 間違いはないのだろうか? ここまで相棒の残した言葉を鵜呑みにしてきたが、確証も実感も得られないまま、清香のあらわな感情にこうして接すると、どうしても確信が揺らいでしまう。
 ──俺の携帯の中に証拠がある。
 相棒はそう言い残した。あのため息ばかりつくカバが証言してくれるというのか?
 いや今はそんなことはいい。問題はこれからどうするかだ。
 雛田は急に疲れを感じた。昨夜からさまざまな事態に遭遇し、一睡もしないまま傷だらけの四駆を走らせ、ようやく軽井沢にたどり着いた。その疲れがいちどきに押し寄せ、彼の思考は泥のように鈍くなった。
 清香の動く気配にそれでも彼は顔をあげた。彼女は駐車場のアスファルトの上に膝をつくと、両手を合わせて拝む姿勢をとった。彼もつられて頭を垂れる。
 朝陽は人間どもの苦悩も知らぬげに、暖かな日差しで駐車場を満たした。

「……ありがとう。お電話もらえてうれしかった」
 清香の話し声に、雛田は目を覚ました。
 疲れに負けて眠ってしまったようだ。あたりを見回す。依然、自分と彼女以外の人影は見あたらず、にぎやかな小鳥のさえずりが聞こえるだけだ。
「おじさまが来てくれたので、もう大丈夫。……うん、わたしね、鏡の国に迷い込んだみたい。この世界がみんな裏返ってしまったの。信じられないでしょう?」
 清香は少し離れた場所で携帯に話しかけている。友人からかかってきたのだろう。
 雛田はズボンのポケットをまさぐると自分の携帯を取り出し、液晶時計を見た。午前八時を少しまわったところ。一時間ばかり眠ってしまったらしい。
 彼は一応、標準的な携帯を持っている。通話やメール機能は頻繁に使うが、写メールも写ムービーも使わない。テレビやビデオ機能にも恩恵にあずかったことはほとんどないし、ましてやPAIは起動すらしたことがない。初対面の挨拶代わりに互いのPAIを見せ合うことも珍しくない昨今、彼のように「飼ってませんので」と応える人間は偏屈以外の何者でもない。
「もしもし? いいのよ、信じられなくても。わたしもまだ夢の中にいるみたいだし……。それじゃまた電話するね。シマさんもお元気で」
 清香は電話を切ると、こちらに戻ってきた。
「起こしてしまってごめんなさい。お友達からコールがあったの」
「シマさんとか言ってたね。もしや?」
「うん、ダ・ヴィンチの揣摩太郎さん。去年のコンサートに来てくださってから、ときどき電話で話すの」
「へえー。スゴい大物が彼氏なんだね」
「違う違う。デートもしたことないのに」清香は否定したが、まんざらでもないようだ。「揣摩さん、ときどき相談に乗ってくださるの。昨夜メールを出したんだけど、さっき着信したってお電話くださったのよ」
 雛田は思う。もし自分が本当の父親だとしたら、彼女はこれほどフランクに男友達の話をするだろうか?
「でも彼は関西に引っ越したんじゃなかったっけ?」
「スゴい」清香は感嘆の声をあげた。「さすがおじさま。まだ誰も知らないはずなのに。そうなの、突然、大阪の大学に通うんだって──」
 清香の言葉が消え入るように途切れた。視線の先には四駆があり、影松の遺体というべき砂が置かれていた。
 清香は雛田のそばにしゃがみ込んだ。
「……わたし、きっと鏡を通り抜けたの。あの朝、次のアルバムの曲作りのことであんまり悩んでいたから、林の中の遊歩道に鏡があったことに気づかなかったのね」
 どうやら清香は『鏡の国のアリス』に自らの境遇をなぞらえているらしい。
「魔法にかけられて困ってるわたしを、白の騎士(ナイト)のお父さんと赤の騎士のおじさまが馬に乗って助けに駆けつけてくれたの。でも白の騎士は馬から転げ落ちて──砂にされてしまったの」
「うん」
 雛田は大きく頷いた。彼女の言うとおり、これは夢なんだ。だいいち人間が砂になるなんて魔法以外の何ものでもないじゃないか。細菌テロ? そんなアニメみたいな兵器が現実にあるわけない!
 雛田は右の手のひらを清香の肩にそっと置いた。
「赤の騎士は白の騎士から重大な遺志を託されたんだ」
「……どんな?」
 清香はすがるような目で雛田を見た。
「命に代えてもアリスを守ってやってくれ、と」



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