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-64- 四十五歳の多感 (15) |
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「おじさま!」 清香は雛田に駆け寄り、飛びつくように抱きついた。雛田は尻をコンソールにぶつけながら、彼女の突進をどうにか受け止めた。 雛田はひどく動揺していた。 コンサート会場を除けば、彼女と直に会うのは数年ぶりである。しかも彼女に触れたのは、彼女が幼少の頃以来ではないだろうか。 そばで見る清香は大人の女性に成長していた。身長が百六十六センチの自分とほぼ同じ背丈ではないだろうか。 「おじさまも来てくれたのね。うれしい」 清香は、ひたいを雛田の肩に押しつけながら、涙声で呟いた。 雛田はさらに動揺した。 (この子は、僕が影松といっしょに来たと思っている。彼が亡くなったことをどう伝えればいいのだろう。そのうえ、僕がこの子の本当の父親であることも告げなければならないなんて……) 雛田は、課せられた使命の重圧を振り払うように頭を左右に振ると、 「さあ、泣いてないで。何があったのか話してごらん」 いたわるように声をかけ、清香の両肩を抱きながら、そばの椅子に座らせる。自分も別の椅子を引き寄せると、彼女の斜め横に腰掛けた。 清香は指先でしきりに涙を拭う。雛田の顔を見て安心したのか、まるで決壊した堤防のように、後から後から涙がこみ上げてくるらしい。 (泣き顔を見るのは初めてだ。いつもは笑顔を絶やさない子が……) 雛田は混迷を深める。ひとまず間を取ろうと、上着の内ポケットからハンカチを取り出すと、清香の手に持たせた。彼女はわずかに頭を下げると、ハンカチを両目に押し当てた。 「二日前の朝だったの」清香はぽつぽつと話し始めた。「変な胸騒ぎがして早起きしたのね。まだ日の出前で暗かった。二度目は無理そうだったので、散歩に出かけたの。ところが、林の中の小道を真ん中まで来た時、ぐるぐると景色が回転しだして、気づいたら……」 言葉が途切れた。 「気づいたら?」 雛田がさりげなく先を促す。 「……おじさまでも信じてくれないと思う。そんなバカな話はないって」 「でも、話してくれなくちゃ判らないよ」 「……おじさま、『鏡の国のアリス』って知ってる?」 唐突に、意表を突いた質問を浴びせられ、雛田は金魚のように口をぱくぱくさせた。 「アリスはね」清香は続ける。「物語の冒頭で、鏡の中に吸い込まれるの。そしたら自分はそのままなのに、見慣れた寝室が反対になってるの」 「鏡に映ったままの世界?」 雛田は清香の意図がつかめないまま、話を合わせる。 「そうなの。右にあったものが左にある──。それだけじゃないの。本に書かれた文字は裏返しになってるし、時計の針は逆回りに動いてるし……ありえないでしょ?そんなこと」 「………」 「林の中では、すぐにそうとは判らなかった。でも遊歩道の道筋がおかしかったの。見たこともない曲がりかたをしていて。しかたなくそのまま歩いたの。そしたらこのスタジオが見えてきて……わたし、ものすごく大きな悲鳴をあげてしまったの」 「まさか──」 こくりと頷く清香。 「そう。建物は、鏡に映したみたいに正反対になってた。わたしは林の出口に膝をついたまま、長いこと悲鳴をあげ続けていて。聞きつけて何人かの人たちが、パジャマ姿のまま出てきてくれたんだけど、おかしいの。みんなの顔が」 「顔も左右反対?」 ふいに清香は顔を上げると、まじまじと雛田の顔や身体を凝視した。 「おじさまもだ。ワイシャツのボタンが──」 雛田は自分の腹のあたりを見おろした。くたびれたネクタイの下のボタンは、ワイシャツの生地を左上にして留まっている。 「ハハハ。でも中身はまちがいなく君の知ってる人間だよ」雛田は清香の不安を取り除こうと、おどけたように両手を広げた。そしてすぐ真顔に戻ると、清香の手の甲を優しく叩いてやった。 清香は気分が落ち着いたのか、話を続ける。 「それからずっと宿泊棟の部屋にいたの。みんな心配してくれたけど、一歩も外に出なかった。だから食事もほとんどとらなかった。そのうち誰も声をかけなくなって、わたしはベッドの上で布団にくるまったまま、じっとしてた。電話のコールにも出なかったし。なんだか怖くて。 一日過ぎて、昨日の朝になっても状況は変わらなかった。どうしようどうしようって焦り出した。とりあえず携帯メールのチェックをしてみたの。ボタンも反対に付いてるし、操作に苦労したけど、メールの文章は鏡に映して読んだの。メル友の何人かが定例メールのお返事がないねってメールくれてた。松ちゃん、どうかした?って。あ、松ちゃんってわたしのことね」 清香は軽く舌を出した。元気が戻ってきたようだ 「でも」再び清香の視線が床に落ちた。「変な迷惑メールがたくさん届いてて、また怖くなって」 「迷惑メール? どんなのが?」 「差出人は『長野防衛隊』になってた。内容はだいたいどれも同じなの。“我が長野県が恐るべき細菌テロの標的になっている。県民は一丸となって、テロリストの侵入を阻止しよう”って」 |
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